自然と至善

自然農を実践し4年目になりますが、ようやく田畑が落ち着いてきたようにも思います。

もちろん、常に天候も変化し田畑の様子も変化し、その生態系の中にいる私を含めた生き物たちも変化しますから常に学びは尽きません。

人間というものは、脳の機能を使いある程度知識が入れば理解したものが記憶によって運用されていくものです。それがマンネリでもあり、変化を感じる力を落としてしまうようにも思います。好奇心や謙虚さがあれば学びは常に新しいものになりますが、常に学びたい、常に学ぼうと機会を逃さずに内省を続けて楽しんでいれば自ずからあるがままに今を生きることができるように思います。

自然の世界では、どの生き物も今に最善を尽くしていきます。後のことや先のことなどを思い煩うこともなく、今を一生懸命に生き切ります。生きるために、生き抜くために自分の与えられた場所で自分の与えられた生を本気で生き抜いています。

最善というものは、人生を遣りきるということです。遣りきるということは、丹誠と真心を籠めて自分にできうるすべてのことを出し惜しみなく正直に実践することです。

古語に人事を尽くして天命を待つという言葉があります。半分は自分の誠で、残りの半分は天の誠で万事それこそが善いことであるという意味だと私は解釈しています。

今の時代は、何でも満たされて安逸安全な中で暮らしていますから危機感というものを喪失し、本来の「生活」ということの本義も忘れてしまっているのかもしれません。遣りきるという言葉であっても、単にやったかやっていないか、やれたかやれていないかのレベルのことを思っている人も増えてきました。

遣りきるというのは、いのちの言葉ですからいのちを懸ける言葉です。

これはいのちを遣りきるということであり、いのちすべてを懸けましたかという自問自答を行うということです。眠いとかだるいとか、やりたくないとか、楽したいとか、明日にしようとか、めんどくさいとか、いろいろと理由をつけては自分に負けてはいのちを使い切ろうとはしません。

これでは今を生きることからも逃れて、結局は自分に甘えてしまっていることになります。

自分で決めたことを自分で実践するということは、人事を尽くすということです。そうして真摯に自分のいのちを懸けているから天がそれに感応して他力が入ってくるように思います。自信というものは、そういう自力を尽くしている中で他力が入ることを悟ることを言うのかもしれません。

最善と尽くすとは、至善のことであり、それが自然であるということです。

自然農には、半分は自力、半分は他力を学ぶ最幸の土壌現場があります。他人のことをとやかく言う前に自分は本当にいのちを懸けてそれに取り組んだか、常に内省と自問自答をもって一度しかない一期一会の人生を愉しんで駆け抜けていきたいと思います。

出会いに感謝しています、有難うございます。