純粋無垢な真心

先日、ある料理店にいき日ごろの御礼にとみんなに食事をご馳走したことがありました。その後から体調が急変し、何人か感染症のような症状で私も含めて寝込んでしまいました。ひょっとしたら原因はそれだけではなかったかもしれませんが、本来は誰かや自分のせいではないのですがみんなが苦しんでいる姿を見ると申し訳なかった気持ちになってしまうものです。

そのようなことを考えているとふと仏陀の最期の話を思い出しました。

仏陀は、説法の旅の最期には、金属細工師のチェンダという仏陀の信奉者が出したキノコ料理で食中毒になり衰弱してそのまま数日後に亡くなってしまいました。

今までは仏陀の動向にばかり注目していましたが、その仏陀の状況をしったチェンダは一体どんな気持ちだったろうか。そしてどれだけ深く心を痛めただろうかと、どうしても共感してしまいます。大切な人にもてなしたことが、それが原因で相手が苦しんだり死んでしまうということがどれだけ辛いことか、その後はどうなったのだろうと思ったのです。

調べてみるとやはりチェンダは非常に落ち込み自分を責めていたといいます。そしてそのチェンダを思いやり仏陀は弟子のアーナンダを使いにやって責めることが決してないようにと次のような伝言を託けます。

「わたしの一生には忘れることができない供養がある。その一つは悟りを開いた直後のスジャータの出してくれた食物、そしてもう一つはチェンダの供養を受けた食物です。それは、最高の功徳です。」と。

それを聴いたチェンダは、地に額をつけて泣きました。私もそれを知って仏陀の思いやりに心が救われました。

知らず知らずに大切なものを傷つけてしまったとき、本当に苦しくそれはどうしても責めるところは自分しかないときもあるものです。自分が間違って怪我をさせてしまったり、不用意な言動で相手の心を傷つけてしまったり、特に幼少期や未熟さゆえにそれが発生し本当に悲しく自分を責めたことが何回もありました。

この仏陀の供養というのは、スジャータとチェンダの純粋な真心のことであり、そのことで私は悟ることができたという仏陀の大切な気づきです。仏陀にとっての忘れることができない供養とは、純粋無垢な仏陀への真心そのものだったのかもしれません。真心からの純粋な行動がどのような結果になったにせよ、その現象の結果ではなく常にその真心の方であると、仏陀の供養を思い大切にして生きていきたいものです。

人にはそれぞれに因縁があり宿命があります。

そこには無数無限の不可思議なつながりがあり、人生はどのようになるのかは誰にもわかりません。だからこそ人としての道を自らの真理で習得し、その智慧によって生きていくしかありません。

仏陀の歩んだ足跡には、その生き方や生き様という智慧が詰まっています。子どもたちの純粋な真心や優しい気持ちを見守っていけるよう智慧や真理を学び続けていきたいとおもいます。