子どもの権利とは

先日、あるニュースで安楽死についての記事を読んだことがありました。日本では、あまり注目されませんでしたが世界ではそのいのちの尊厳について議論されていました。この安楽死はカリフォルニア州やオレゴン州など一部のアメリカ以外に、ヨーロッパではスイスが1942年と古く、続いてオランダ、ベルギー、ルクセンブルグで合法となっています。

この時、印象に残ったのは「人間は死を選ぶ権利がある」と言っていた言葉です。

この選ぶ「権利」があるというのは、人間の尊重や尊厳についてのことが語られているからです。この権利というのは、日本では自分に与えられた当然の既得権益のように権利が語られますがこの権利の定義がはっきりと理解していないと意味を取り違えてしまうようにも思います。

例えば法律上においての権利は、法によって保護された利益に関し個人または団体に対して認められる活動の範囲(客観説)と自己の意思の優越を主張できる状態(意思説)である言われたりもします。この時の法と権利は表裏一体であり、権利は法の主観的側面であり、フランス語のdroit(subjectif)、ドイツ語の(subjektives) Rechtなど、ヨーロッパの言語では、法と権利は同じ言葉として表現されています。つまりは法は権利であり、権利が法なのです。

そしてこの「法」(英: law)とは何かということですが、これは人間社會における社会規範のことを指します。 一般的に世間でイメージされる法は、一定の行為を命令・禁止・授権することや違反したときに強制的な制裁(刑罰、損害賠償など)が課せられたり、裁判で適用される規範として機能することなどを想像しますが法や権利の本来の意味は社會の平和のためにも人間の「道徳」や「社會規範」のことを指していたのです。それをみんなで守ろうということなのです。

人間は一人以上の社會の中で集団で生きていく以上、人間としてやってはならないと思われることや周りに対してこれは犯してはならない道徳、社会規範があります。例えば、「人を殺してはならない」、「人の物を奪ってはならない」などのようにこのようなものを「法」にして人類が共存共栄するために用いられているものが権利だと私は思うのです。つまりは、人間の間で定めたルール、原理原則、道徳などのことを権利というのです。子どもの権利というのは、子どもの道徳であり、人間の原理原則であり、子どもからあるいのちの尊重のことでもあります。

この権利の意味を、正しく理解しなければ子どもの権利に関する教育の方法の理解なども疎くなるように思います。人類で子どもたちの人権を保障するというのは、先ほどの法や社会規範、道徳によってどうあるべきかを、自ずから幼い頃の集団生活によってそれぞれが学び、それを社會の成熟のために訓練を続けていくのです。

教育者はすべて社會を見守る規範者でもあります。むかしは村の長老や、もっとも徳の高い人物がそれを示したのかもしれません。今の時代、何のために教育を変えているのか、なぜ変えないといけないのか、人類が何処に向かっているのかを有志たちによって受け継がれ伝承されていきます。

引き続き、なぜ権利条約があるのか、権利のはじまりとは何かを深めてみようと思います。