日本人とは何か

江戸時代中期、失われかけていた宮中行事を次々と復興させた「中興の英主」と呼ばれる人物に第112代・霊元(れいげん)天皇がいます。この方は、天皇の譲位後も院政を行い、和歌や有職故実、神道、宮中祭祀など、日本古来の文化や伝統の復興に力を尽くしました。日本的精神とは何かを甦生した人物であり、英彦山とも大変深い関係があります。

この時代は、政治は徳川幕府が担い、天皇や朝廷は文化や儀式を守る存在となっていました。長い平和の一方で、朝廷の権威や古来の祭祀・儀礼は次第に衰え、多くの知識人は「日本人が本来受け継いできた精神とは何か」という問いを抱くようになります。幕府の力がつよくなり皇室の伝統も衰退していました。天皇は単なる政治権力者ではなく、日本の精神文化を受け継ぐ中心であるという強い自覚を持ち皇室の権威を立て直した知の人物だといいます。一生を懸けて取り組んだ、日本文化の甦生によって朝廷には再び古典や儀礼を重んじる氣運が生まれ、後の学問や思想が育つ土壌が整えられたといいます。

もともと霊元という追号は、古代の名君である孝霊(こうれい)天皇と孝元(こうげん)天皇から一文字ずつ取られたものです。

この霊元上皇の日本的精神の甦生の影響を受けて国学というものが誕生します。この国学は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』など日本の古典を研究し、中国の儒教ではなく、日本人本来の心や価値観を明らかにしようとする学問のことです。契沖、荷田春満、賀茂真淵を経て、本居宣長によって大成されます。本居宣長は、日本人の心を「やまとごころ」と表現し、自然や四季、命の移ろいに深く心を寄せる「もののあはれ」の感性こそ、日本文化の根本であると説きました。霊元上皇が守り育てた宮中の古典文化や祭祀の伝統は、国学者たちが研究を深める重要な基盤となり、精神的な源流となったといいます。

そしてその後、水戸藩では徳川光圀が『大日本史』の編纂を始めました。これが後に水戸学と呼ばれる学問へ発展していきます。水戸学は、日本の歴史を通して国家のあり方を考える学問であり、歴史の主人公を歴代天皇に据えたことに大きな特徴があります。

この時、「天皇を敬い、そのもとで国を治める」という尊王の理念が体系化され、幕末には会沢正志斎や藤田東湖によってさらに発展していきました。国学が日本人の精神を明らかにし水戸学がその精神を国家の理念へ結び付けていったのです。

幕末の頃には、国学が示した「日本人本来の精神」と、水戸学が説いた「尊王」が日本の国家理念になりそれを学んだ志士がたくさん誕生してきます。吉田松陰は国学から日本の精神文化を学び、水戸学から国家観と歴史観を学び、さらに陽明学から「知識は行動によって完成する」という知行合一の思想を学び日本人の生き方を至誠として実践しその模範になりました。

英彦山との関係は、享保14年(1729)、霊元上皇が「英彦山」の勅額を下賜し、それまで一般的だった「彦山」に「英」の一字を授けました。これは英彦山に霊元上皇が日本の古来の文化と精神を持っている日本第一位の霊山と見なしたからではないかと私は直感します。

日本古来の信仰を守り続けてきた重要な霊場だからこそ勅額の下賜は英彦山を皇室が認める霊場として位置付け、の精神的価値を全国に示したように思います。

引き続き、霊元上皇のことを深めつつ、日本人とは何か、そして尊王攘夷の本質とは何かを学び直していきたいと思います。