清澄心

いくつかの仕事を通して、いつも自然体を求めて一体自然とは何なのかを考えることが多い。

雑念や不安、また自分を優先する心で仕事をしているといつも余計な仕事が増える。つまりは忙しくなる。心を籠めるには余裕とゆとりがいる。自然界のように循環するには、悠久の流れをいつも抱いている心がそこにいる。

そしてその心と意が清く澄んでいつも真心で物事に正対していけば自然な姿になる。

特に私たちは経済社会の中で自分たちを自己表現している。
その中で多くの刷り込みがあり、それに左右されないような自分(正しい心)を信じる力が必要になる。

私が尊敬する二宮尊徳は、その富財に正対し、増減する財について論語の「大学」を使いその夜話で語っている。

「財は末なり、徳は本なり」と。

そして尊徳は自らその財の中庸のモノサシを「以徳報徳」とし、何より実践を重視し徳を以て世の中に報いることを使命としてその生涯を偽り怠ることがなかった。

道徳や経済を一致するには、何よりもまずその心を澄ませ自らの使命を見つめて損得ではない思いやりを広げる心、つまりは徳を以てその道に根差すことが第一義なのだろうと私も思う。

よく身の回りの教育に従事する方々が理想と建前を中庸だと誤解し、片や良いことをし片や帳尻をあわせるという人をよく見かけることがあるけれど、それでは心が次第に曇り、正しいことができなくなり次第に本懐や本筋が歪み道から離れることになり大損害を得ることになる。

保守保身とは、どうせ無理だと変化に対して変わる勇気を諦めた人たちのこと。

それでは、無限に降り注ぐ天の恩恵を受けて時代にあわせて真っ直ぐに自分の命の光を使って自然におおらかに明るく共生し伸びきることができなくなるのではないかと私は思う。

人はまず自らその道の在り方を見つめ、丹誠を籠めて学び磨いていくことが何よりも自らで与えられた天命に主体で生きる方法だと私は思う。

古えを歩んだ万葉随神の人々は、日々、自然の中で禊ぎをし日々そういう自分の心を清め浄化し、何より平安と命の感謝を大切にしてきた。

しかし今は、何と便利になり、何もしなくても生きることができることが当たり前になり、全てが受け身になり、当然あった当たり前の素直な心や慈愛慈悲、また思いやりや感謝といったそういう生きる規範が蔑になり目に見える世界ばかりが優先され信じられるという慢性的な無機質な生活を送るようになった。

自然に帰すにはまず自ら人心の働きを知り、何より自らそれを省み慎み直す必要があると私は思う。

時代を遡れば環境がたとえ戦時中であってもどんなものであっても、それを実践した人間力を発揮した生き方を示した方は世の中にたくさんいる。

上杉謙信の家訓16カ条、その「宝在心」にこうある

一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず

人が人間力を磨き生きる上で大切なものはいつも原始の真心だと私は思う。
その心の働きを知り、その心をどう修めるかで世界を創るのが人間。

今の人たちに大切なのはその心をまず主体にすることで、自分を大切に生きていくことを優先することだと思う。

自分を大事にとは自分勝手にやることではなく、自分の心を澄ませ優しく思いやりを育みそれを認め合い支え合うという共生の心のことを言う。

今の子どもたちには、自分の心に正直にやりたいことを思う存分やれるように私たちカグヤの社業を使い刷り込みを一つでも取り除き、夢を掴めるような人たちを照らしていきたいと思う。

何より、人間を深く愛し、信じ、子どもたちが自然に豊かに創る未来を遺せるよう自らの実践を以て徳を貫いていきたい。

感謝