子どもの未来の権利

先日、来日したリヒテルズ直子様と私が現在色々な哲学や思想を教授いただいている吉川宗男先生をセッティングし、話をお伺いすることができた。

もともと私は師匠の真心と王道の実践が世界を易えると信じて何よりも優先して深め徳を明るみにしていくことに命を懸けているのだけれど、それをより幅広く世界や社会へ感化浸透するには最先端でありもっともシンプルな思想をより具現化し、それを自らのオルタナティブと新しい世界の創出の企画の精度を高めるためにも真摯に取り入れている。

もちろん、理屈はさておき国際人である両雄の対談の場を設けることは私の幸せであり、私自身が生きる価値そのものでもあり、本当に好奇心と喜びの中で楽しむことができた。

吉川先生の哲学や思想は、メビウス理論としてお互いが統合的総合創造のエネルギーをダブルスウィングすることで宇宙の絶対バランスを生じ、その瞬間に煌めく一期一会があり、その今の瞬間から奇跡の熱が発生しと・・私にはまだまだその深遠な哲理が理解できていないのですが、何より先生自らの体験と実践によりそのことが持つ力を世のため社会のためにいかしたいと発心しているように改めて感じました。

今年は、中京大学で8月に開催する「世界会議」がありそこでも私も一緒になって同じ道を歩んでいる先生と講演やシンポジウムを楽しむ場や間、そして和が共有できるのを有難く感じています。

そして、リヒテルズ直子様は昨日のブログでも書きましたが差別や人権というもの、また人としての社会の在り方や個々の自立ということを通して、真に幸せになり助け合いの未来を創造したいと、故郷のため、そして独立自尊のためにと勇猛心で活動している維新の志士であるようにも感じました。

その話には、私のあまり知らない哲学者の話や、宗教者の話、そして理論や思考法など様々なことを学ばせていただきました。

Martin Buberの我と汝の話などはもっとゆっくりしたかったと感じました。
本当にわくわくすることばかりで、時間がもっとあればと名残り惜しくなりました。

その中でもまた一つ刷り込みのとれた面白い話がありました。

これは私の解釈ですが物事を考えるとき、そして人との調和や対話を思うとき、如何に物事を排除しないかというところに真実の鏡のようなものがあるということ。

よく大人は口癖のように「必要悪だからという」しかし、これはよく考えてみると変な使い方をしている。よく大手企業などや私たちの教育業界などではこういう類のことを言う人がとても多い。

どんな場面かと言えば、必要悪とは別に大きなことをやらないといけないのだから小さな犠牲は構わない、大きな善をするために「これも必要な悪だ」という使い方だったり、もしくは、自分が悪いと分かっていても、他の方法は全部妥協してその結論をだしたのだからそれでもやるしかないじゃないかと自分を言い聞かせるときに「これも必要悪だから」と使っている。さらに巧妙になってくると、直接必要悪だとはせずこの一見犠牲の山積みの問題をそのままにしておくことが悪なのだ、この悪を排除することが善だからこそ、「悪は悪を以て制することが必要なのだ」と、そういう自論を展開して国民を守るためにと世界を巻き込んで戦争までした国すらもある。

必要悪とは本当に都合の良い言葉だと今まではずっと思っていたし毛嫌いしてきた。

しかし、本質や一流の本物が使うこの「必要悪」とは本当は何だろうか?

私には、そういう方々が使う必要悪は何一つも一切排除しないで新しい選択をするということで使っているのだと思う。

これは例えば、そもそも悪と言われるものもすべてはこの世に必要だとする考え方、病気でもそうだけれどそれが悪いから治療するのではなく取り除くのでもない、それとどのように共生するのか、一緒に生きていく方法を人間らしく導きだすか、もしくは小さな犠牲というものすらもない新しい答えをお互いに話し合いによって決めるということでもいい。

つまりは、本当の必要悪とは、善も悪もともに必要だと言うこと、言いかえれば、善も悪もこの世には存在していないと言う考えかたということになる。

人は話す言葉が生まれたとき、光と闇、熱と冷、個と液などと必ず分かれて物事を表現し理解してきた。しかし私が思うと、自然は最初からわかれたことは一度もない。

すべては総合的創造的必然として成り立っていて、そもそも悪いものをつくるはずがなく、そして同じように善いものをつくるはずもない。

ただ、そこに在った。

そこに在るものは、無と空という名の自然というものだったという解釈ができる。

だからこそ、そこで生きる私たちは常にそういうもの天理から離れることはできるわけがない。

子どもたちにいえてもそうだし、周囲にある動植物もすべては繋がっている世界の住人であるし、それが当たり前というものだと私は思う。だからこそお互いに折り合いをつけているし、お互いで納得できるように生き生き合ってきた。

今は、この人間社会は権力と保身の名のもとに、よく必要悪だ必要善だと、理想と建前を使い分けて偽り生きていく社会風土が蔓延しているようにも思う。

しかし、そんなものあるはずがない。

子どもが安心して暮らせる未来を創るためには排除するのではなく、その子の個性を認めてその子のやりたいことを見守る世界を創らなければ、より大人になって心根が屈折する不自然で偏った大人たちがたくさん生まれてしまう。

それこそが子どもに起きている本当の危機だと思う。

子どもの未来を奪う権利は誰にもない、それを子どもの人権としても良いではないかと私は思う。

私は社業を通して、本当にすべてを調和しそこから真の一手を差し出し支援できるようなホスピタリティとコンサルティングを極めていきたい。

この出会いに感謝し、この出会いをまた実践で活かしていきたいと思います。

一期一会と幸福な時間に感謝します。