用力

能力主義という考え方があります。これは1970年代から80年代にかけて多くの日本企業で取り入れられた賃金制度に関する考え方で、その人が保有する能力を反映して賃金を決定したものです。同時に成果主義というものもうまれ、その人が出した成果に対して報酬を支払うという考え方です。

この頃から、人は評価によって有能か無能かと分別を意識するようになったように思います。今でも社会全体の中には、有能な人ばかりが出世し、無能な人は切り捨てられるとし、派遣を中心に能力で人が移動するという仕組みで人材も動いています。そしてもっとも価値があると教え込まれるものは、有能であること、そしてさらには万能であることが求められていきます。

この万能とはなんでもできる人のことであり、能力が高い人が世の中に必要されていると教え込まれ多種多様な資格をもっている人が重宝されるといわれています。言い換えれば、どこでも使いやすい人という意味で万能を求めていた企業があったのかもしれません。

しかしこの能力というものは少し掘り下げてみればわかりますが、そもそもそれを用いる人がいなければその能力は発揮されることはありません。いくら自分は能力が高いと周りに自慢して誇張してもそれを用いたいと思う人がいなければ社会でも組織でも嫌がられる存在になってしまいます。

能力ばかりを高めて、成果ばかりを求めて一人その能力を見せつけても気が付けば誰も自分と一緒にやってくれなくなったという話はよく聞く話です。例えば、営業会社で能力主義と成果主義を用いて競争させてトップセールスマンが出てきてその人が成果を出して能力を褒めたたえても、そのうちその人は周りとの関係が築けずに成果がでなくなれば周りが悪い、会社が悪いと、すぐに飛び出していきます。会社の中はギスギスしたものになり、居心地がわるくその能力が使えなくなればその人は会社から不必要だといわれ解雇されたりするものです。

これは能力というものを中心に人間を管理することで起きることです。個の能力だけを評価するというのは、チームや全体との連携に大きな欠陥があるのです。海外の企業では、個は独立していますから転職をしながら能力を使ってもらえるところに移動しながら働きます。しかしそれは組織の中でその能力を活かすために能力だけではなく用力も備わっているということです。

この用力の用とは何か、それは有用の用です。

有能であることばかりを優先するのではなく、その能力をどのように用に立てるかという有用さが全体と一緒に働いていくことになります。言い換えるのなら、仕事をするためだけの能力か、それとも共に働くための用力かということです。

人間は、用いる人があってはじめてその能力が活かせます。自分を使ってもらえるように周りにならなければいくら自分が有能だからとじっとしていても誰もその人を用いません。能力ばかりを磨いてきた人は、用力が足りず自分が何をしていいかわからずに孤立している人が多いです。この用力は、如何に全体のために自分を用いるか、如何にみんなのために貢献するか、如何に自分の我を優先せずにみんなの仕合せのために自分を用いていくか、そういう利他や利益を産み出せる人になるということです。

有能な人は、イコール有益な人ではありません。時として有能な人が有害な人になることがあります。これは自分の用い方を間違っているのであり、能力主義で評価されてきたことで物事を能力だけで判断する刷り込みが抜けないから無能を恐れ有害になるのです。

人の仕合せは、単に自分だけがよくなれば幸福になるのではなく、自分が周りのお役に立てば仕合せになり幸福感を味わえます。どんなことをしたとしても自分がみんなのお役に立っていると実感できるのならその人は働くことが幸福だと実感します。こうなれば有用な人になった証拠であり、みんなにとって有益な人になっているということです。

自分はこの能力があるのだといつまでもその能力に固執してその仕事にしがみ付くのではなく、みんなのために全体のためにみんなに用いてもらえるような存在になるように協働でチーム全体のために尽くすならその人は有能から有用になり有益になってみんなの仕合せを創造する人に変わります。「またあの人たちと一緒に働きたい!」といわれるような用力の人は、みんなの仕合せを創造する人たちになります。

何のために働くのか、刷り込みを取り払い掘り下げてみると人間であることの意味や本当のことが観えてくるはずです。

用力を高め、子どもたちみんなの仕合せのために働く幸せを伝道していきたいと思います。