古人の遺志

今は文字によって様々なものが残されています。

その文書や文学を通して研究し、それを論文にして発表し学識の中で真理を共有していこうとしています。文書や文学というものの行間には確かにその本質を垣間見え、とても勉強になるのは事実です。

また多くの人達に学びに入るキッカケもまたその文書がある御蔭で入りやすいのかもしれません。しかしそこでもう一つ別の側面を考えていると、文書や文学があるからこそ分からなくなっていくものがあろうとも思います。

本来は、文書や文学というものは最初に現場で何かを志た人たちの実践や事実がありそれを何らかの形で残そうとした道具であるというものです。その道具というものは、思想をカタチにしたものでそれは口伝や石像、その他の仕組みで残そうとした試みということです。

その本来の求めたものが何であったかは文書や文学では分からないはずなのです。

松尾芭蕉に「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」があります。

これは弘法大師空海の遺した文から松尾芭蕉が引用したようですが、この言葉であってもこれは単に文書文学ではなくその実践現場の人達の思想の根幹を求めるのは自分の実践現場という意味になるのでしょう。

いくら私もここで文書を書き綴ったとしてもこれは決して分かるものではないはずなのです。どの文書や文学を嗜んでも、その求めたところにむかって自分の人生そのもので向き合って求め行動して噛み締めていくことには適わないのです。

本来の学問というものは、その人の言うことを学のではなくその人が学ぶものを共に学ぶというものが実学なのでしょう。

尊敬する古人たち、尊敬してやまない偉人たちの士魂を受け継ぎこの今を遣り切っていきたいと思います。