余韻の香り

人生観というものがあります。

その人が、どのような生き方をしたいか、そこに価値観があるのです。価値観とは、その人の選びたいこと、その人が生きているうちに何を体験したいか、何を学びたいかということなのです。

人は体験というものを通して人生を学んでいきます。体験をしないで、敷かれたレールを歩いていこうとすることもできますがそれでは自分らしい自分の人生を生き切ったことにはなりません。だからこそ、常識的には大変であっても遣りたいことを選んだり、周りから敬遠されるような困難な道であってもその道へと自分を推し進めようとする決心する価値もあるのです。

人生を遣り切っているというのは、自分の遣りたいと決めた体験を尊びそれに向かって素直に取り組んでいくことだと思います。それはその体験こそが役に立つということを実感することができるからです。

例えば時代というものを観て人生を省みるとします。すると、その時代の世代の役割というものがあるのです。その世代がどのようなものを先代から受け継ぎ、そしてその世代が何を次世代へ遺すのか。そこには使命があるように思います。

その使命とは、その自分に与えられた天与の使命を果たすこと、言い換えれば役目としての自分の体験を真摯に遣り切ってそれを学びその姿を譲ることのようにも思うのです。単に体験を遺すことが何よりも自分の役割を自覚できるという境地に入るのです。そうして残した自分らしい体験が子どもたちの未来の道を切り開くことになるのです。

このように体験というものが残るというのは、先人たちの人生を尊び感謝しているから実感できるものであり、そしてそれは自分が今、まさに心底からの自分らしい実体験をしてそれを真摯に譲ろうとするから観えてくる境地でもあるのです。

言い換えれば人生を遣り切っていること、そしてそれが何よりも役に立つということを自覚するに至るのです。

人は様々な才能を与えられています。この才能も自分のものではなく、天から与えられた才能です。それを自分の真から求めた体験に素直になって飛び込んで、そこから正直に学びそのものを有難く遣り切っていく人生を送ることそのものが真に役に立つということなのでしょう。

子どもを思う時、色々な大人たちが様々な生き方をしていますがその人らしく生きた証には必ず何かの余韻が香ります。その余韻の香りこそが人生観のようにも私は感じます。

自分がどのような余韻の香りを遺せるかは、真摯に体験を優先した証なのかもしれません。善い出会いをまた一ついただきました。いつも人生は体験してみることで出会いの有難さを実感できます。

感謝