共生の先生

かねてより念願だった北海道旭川の斉藤牧場を見学するご縁をいただきました。台風の後の牧場は日差しが強く、牛たちが木蔭でゆったりと涼んでいる様子、またのびのびと草を食べる様子に懐かしさを感じ有り難い気持ちになりました。

ここ斉藤牧場は、世界でもまれな独特の飼育方法「蹄耕法」という牛が自ら牧草地を切り拓いていくという仕組みを実践されている牧場です。通常は重機を使い牧場をつくりますがここではほとんど牛に任せて場を見守り整えていきます。

山には牛だけではなく、様々な野生動物や虫たち、多様な植物たちが存在しながら牛もまたその中の循環の一つとして生活を一緒に営んでいます。牛舎の中で牛乳を搾取するためだけに用いられる牛ではなく、いっしょに生きる仲間として生活し牛乳を分けてもらうのではその根本の考え方が異なります。これは自然農や自然養鶏でも感じましたが、人間の都合で生き物を単なる使用品の一つにしてしまうではそのもののいのちは喜ぶことはありません。

なぜ使用品になるのかは、結果だけを求めてプロセスを蔑ろにし効率優先、合理化優先、手間暇を悪かのように排除してきているうちにこのような結果主義になっていくのでしょう。現在、私たちが飲む牛乳は水よりも安くスーパーなどに提供されていますがその陰には、大量の飼料や牛の改造、もっと牛乳を出させるためにとあらゆる方法で牛に負担をかけているのがわかります。

何をもって「おいしい」というのか、そこには意味があります。舌先三寸を誤魔化した味付けの美味しいは脳だけ喜べばいいのでしょうが自然の理に適っている「おいしい」は、手間暇や素材、そのプロセスそのものを五感で美味しいと感じるのです。

斉藤牧場でいただいた搾りたての牛乳は、飲んでみるとすぐに見学した牧場の様子が感じられその美味しさに自然の恵みが入っていることを感じます。そう考えてみるとすべていただいている食べ物は、自然の中でいのちを輝かせ活き活きと伸び伸びと仕合わせであればあるほどにその生き物から発せられる生命力もまた同じようにいのちが育っています。

私達が本当に食べているものは単に胃袋を満たすためのものではなく、いのちそのものを分けてもらっているのかもしれません。だからこそわけてもらっている仲間やパートナーである生き物たちを大切に見守りフォローしていくことでそのいのちを分け合っていきていくのです。

かつての共生には常に分け合うという思いやりがありましたが、今は人間世、人間界のみのために地球が使われてきているように思います。「いのち」は決して人間のためだけにあるものではないのだからもっと経済効率だけに縛られないような生き方をみんなが決めてそういう生き方にお金を払うような時代にしていく必要があるように思います。

自然は共生の先生ですから自然に寄り添う仕組みを実践する先人たちから自分の生き方を見つめ見直し、未来の子ども達のためにも自然のいのちの本当の豊かさを遺し譲れるように自らも実践を積んでいきたいと思います。