心聴

人は人のことを聴くというのに、本心を聴くのと表面を聞くというのがある。

本心を聴くには、心から相手が何を望んでいるのかを相手の立場で共感し受容しなければ本当の声は聴けはしない。

通常、人は自分の目線で相手を自分解釈で認識しきっとこうだろうなと決めつけてしまうようにできている。そのために、表情や口調、言葉や話し方などを見て聞いている。

しかし、それで話は聞いたというけれど自分が聞いてあげたと思っている限り本当の声は聴いたことにはなりはしないことに気づいていないだけだったりする。

私は年末に子どもたちと一緒に、昨年で一番楽しかった思い出はなんだろうねと振り返りをしたときそれを実感することがあった。

子ども達は、お父さんと釣りにいったこと、山で探検したことなどを話してくれた。自分にとっては、本当にそれだけ、他にはそれ以上の楽しかったことはなかったのかと尋ねるとそれが一番だったと話があった。

私は自分にとっては、子どもが行きたいといったからただ一緒にやっただけでたいしたことをしていないと思っていたのだけれど、当人たちにとっては本心を聴いてくれたということになったのだと気づき大変反省させられた。

子どもたちは、「私と一緒に何かをやりたい」という本心という心の声があったということに改めて気づけたからだ。自分が話を聞いているのは、釣りえにいきたいや山登りをしたいという表面上の言葉であるけれど、何が本当にしたいのかと今の自分の考えではなく、その時の子どもの心で寄り添ったときただお父さんと一緒に様々なd体験したいということを話ていたのだと気づくものである。

これは、社員からもよくあるのだけれどいつも楽しかった話を聴くと私と一緒に体験した社内行事だったり、イベントや大変な仕事をみんなで一緒にやったことを話すことが多い。

私は日々新しいたくさんの思い出が次々にできているのでついこの程度でいいものかと思ってしまうけれど、それは相手の話を正しく聴いていないからであり謙虚ではないからそういうことも聴こうとせず傲慢になっているからそういう声も聴こうとしなくなっていくのであろうと思う。

話を聴くとは、相手の立場になって本心を確かめることをいつも謙虚な気持ちで自分から確かめることである。自分から近づき、自分から話しかけ、自分から本心を確認していくことが傾聴しているということになる。

相手の立場になるとは、相手が自分のその環境と状況だったらと受容し、相手が自分となったとき何を言いたいのだろうかと共感し、そして傾聴することをいう。

そしてそれをできるように思いやりをもって手伝っていくことで相手はお互いを信じ合うようになっていく、認めていくし、そして尊重しあうのだ。

こういう体験を通して私は、いつも心の中に相手のことを思いやるスペースを広げておきたいと心から思う。もっと本当のことをもっと本当の声を聴いてあげられる心の優しさと強さを持ち合わせられるような本当の自分らしくあれる自分をこれからも忘れず大事にしていきたい。

一人でなんでも背負い、一人でなんでも責任を感じ、一人でなんでも真面目にやっている人が増えてしまう共依存の社会の中で、私たちはかつてない孤独に苦しみもがきながら何かにすがっていたいと思う罠にはまりそうになるけれど、子ども達のためにもまずは自立し、みんなで一緒にやったり、協働した体験をたくさん用意し、思い出を創り、人の暖かさや思いやりの輪を広げていけるような心聴の実践を積んでいきたいと思う。

人が人を見守り合う社会を、心で聴く実践からはじめていきたい。一円対話はそれをやるためにあるということをカグヤでは何よりも大事にしていきたい。