共志

時代の変革期には、志を高く持ち命を懸けて維新を志す人たちがたくさん現れてくる。それは血液のように循環を繰り返し、一定の状態に保とうとする自然の流れでもある。今の時代はどうなのかははっきりはわからないけれど、歴史を観れば政治が荒廃しどうしようもなくなる時、そこに一種の諦めが広がり人々が国に期待することをやめる。

しかしそれでも元気な人たちが、誰もしないのならば自分がやるといってリーダーシップを発揮していくのであろうと思う。そのタイミングや民意などが重なり合うとき、自然発生的に調和を求めて立ち上がるのであろうと思う。

昆虫や動物なども集団を創る生き物は、同じく自浄作用というものを持っている。これ以上いったら滅んでしまうと自覚して自らがそれぞれに一定数まで減らしそこからまた元のあるべき用へと回帰させていくような感じだ。

人間も、深い潜在的なところでは種の保存のために無意識化で自らそういうものにあわせていこうとする集団の生き物が持つものと同じものがある。

今の世界の流れは、狭い空間に増えすぎた鼠のように人口が増えてしまいどうなるのだろうかは自然の流れを観ているとある程度は予測は立ってくる。これを与えていただいている自然からの叡智で人間がどれだけ試練を乗り越えることができるかはそれぞれ個々の生き方、またはそれに繋がる本筋の教育などにもよるのであろうとも思う。

どちらにしても、覚悟を決めて本気で命懸けで生き切るという意味ではどの時代も普遍的に自分がどうあるべきかということに尽きるのだろうとも思う。そこには人間の持つ原理原則という倫理道徳に寄り添うものであるし、それが王道であるのだと思う。

そしてこの王道に入るには、まず公私の別があると思う。

何かの役割を持つときそこに公私があるけれど、その私を極力無にしていくように忠義に根ざすため修養し、学問をし公のために生きろうとする人たちがいる。私の師もそうだけれど、一般の人たちにはわかりにくいだろうけれど大きく異なるのはどれだけ私情を挟まず公務に専念しているかというところが圧倒的に差があるのであろうとも私は思う。

目的が公務であれば、より自分を純粋に潔癖に明るく保つことができる。それを続けていけば同じように志を共にするものが集まってくるし継承していくのであろうとも思う。

そして目的とは達成した後をふり返れば、何のためにやったのかはそれぞれに顕われてくる。それが野望の成就なのか、志なのかは目的を達したときにはっきりと感じることができるのであろうと思う。

自分の一生だけで達成できるようなものであるなら野望であることが多く、それが壮大な年数をかけて数世代もかけてのものであればそれは志という。

なぜなら世代を重ねるものにおいては、願望よりも祈りに近いからだと思っている。私は祈ることが趣味なので、こういうものは当たり前に感じるのだけれど志とは人々の幸福を願う心であり悠久の自然に心から感謝の念を忘れないことをいう。

そういう人たちとともにするのが志を持ち道を歩む楽しみでもある。生き方を思うとき、自分だけのためにやるのかそれが多くの人たちの幸せのためにやるのかではどちらが明るく素直に純粋に生きられるかをみると選択する理由すらもない。

夢を持つのは、自分が役に立ちたいと思うからでもある。子ども心に知っているのは、それが自分の生きる道であるからであろうとも思う。

子ども達にもそういう自分だけではとても達成できないような祈りに近い願いを持てるよう見守る環境を用意していきたい。今は、あまり人のお役に立てることを幸せだと実践して見せる大人が少なく、自分のことばかりを考えている人たちが急増している。

だからこそ、そうならないよう共に志す人たちがお役に立てる歓びを感じて背中で示していければと思う。