優しさと強さ

先日、33歳の誕生日を迎えカグヤのクルーにお祝いをしていただいた。
たくさんのメッセージを朋やクルーからいただいた。

毎年毎年、この春爛漫の桜花繚乱の季節に新たな門出とご縁をいただき周囲の人たちの有難い暖かな真心に深い感謝を覚えている自分がある。

生きていくというのは、生かされていること、そういうことも日常の喧騒の中や街の風景に流されていくけれど、「誕生」を思うとき一人ではないことや生きる喜びに触れられることはとても幸せなことだと思う。

生きていれば、様々な悲しいことも嬉しいこともある。

そしてその殆ど全てが人と人との間に起きることであり、それにより心傷つき、また癒され、乗り越え、優しくなる。

裏切られても、諦められても、捨てられても、忘れられても、それでも生きる。
大切にされ、信じられ、与えられ、求められ、受け容れられ、だからこそまた生きる。

そういう出会いと別れを繰り返し、生きていくということの本当の意味と掛け替えのない永遠の今の素晴らしさを感じることができる。

ヘレンケラーが遺した言葉に、「心を優しく持ち、耐え抜くことを学ぼう。強い心で生きるために。」がある。

私が好きな言葉のひとつ。

「優しさ。」

人はそれぞれに悲しみの質量はそれぞれで違う、その心が純粋であればあるほど傷つくことも鋭敏になり深くもなる、世間では当たり前のことでさえも、耐えられないほどの悲しみを突如と得ることがある。

時には、本当に沈んでしまい、どうしていいか分からなくなることだってある。

しかし、その一方で必ずといってもいいほど感無量の悠久の歓びも生まれそういうものがいつまでも自分が純粋であるがままでいようとする自分を応援し背後から強く支えてくれていたりする。

ヘレンケラーは、自らの生涯を忍耐と慈愛により貫き、世界の平和のために亡くなるまで自らを真に尽くすことができた。そこには、あの恩師サリヴァン先生との出会いと死出の別れ、病気と三重苦の障碍との正対によるものなのは本人の言葉からも分かる。

そしてそのヘレンケラーはこうも言う、「幸せの扉がひとつ閉じるとき、別の扉がひとつ開く。けれども、私たちは閉じたほうばかり見つめていて、私たちのために開けられた扉に気づかないことが多い。」

人は強くなくてはこの世の中で生きてはいけない、しかしその本当の強さとは様々な悲しいことを乗り越え、それにより真の優しさを手にできたものだけが得られる強さなのだと私は思う。

強さというのは、ただ頑丈なだけではそれは強さではない、優しく柔和な強靭であることが優しさの本質であり真の強さになるのだと思う。

弱いと自分のことだけしか考えないし、自分の中に引きこもってしまう。

本当の優しさと強さは、いつも隣合わせに共に在るもの。
自分以上に自分を越えて、真心と至誠で相手のことを思いやる心。
男らしさというか、志ある男の道としてのそんな生き方にいつも強く惹かれる自分もある。

私はこれからも決して逃げず、様々な門出に正しく心を尽くし全身全霊で関わり、至誠をもって歩みを深め、新たな34歳への旅路を生きていきたいと思う。

それが今までにお世話になった恩人への感謝であり、新しい恩人への誠意になると信じずっと変わらない私の本当のあるがままの心でいようと思う。

これから未来を生きる子どもたちには、待っているであろう過酷な不自然が渦巻く世間の中でも優しいだけではなく、強さという本当の優しさの意味を伝えていけるような自らの実践のモデルを見せていければと思う。

まだまだ私は実践が不足し本当に日々が分からないことばかり、もっと優しく強い存在になれるようにすべての邂逅を天からのギフトとして手を合わせて生きていこうと誓う。

心からの応援と励まし、心に深く染みました。
今の私には何よりの豊かなプレゼントです。

本当に有難うございました。