善の心で

心で思っている奥底から湧き出ている良心、そういう生の飾らない自分の真なる心のことを本心ともいう。

本音を言える相手とそうではない相手を分け、本心を隠し表面上を取り繕い話をしている人もいる。よほど場面がなければいつも本音を言わない人もいる。

自分が何をするにも相手の反応を見てから動くというのは、自分の本心に従うのではなく相手に従うことを大事にしているからでもある。そういう生き方をしている人を信頼することはとても難しい。

本心でいるというのは、自分が本当に心から感じた気持ちをいつも周囲に伝えられるということである。それは例えば、感情の壁を超えて本当に思うことをそのまま素直に表現できて自他を思いやることでもある。

互いに無理を言い合える関係というのも、本心を開いているからできることであり、心をいつも閉じているのでは体面だけの関係で仮面を被っているだけだということになる。そうなれば感情だけの付き合いになり、単に感情的にどうかというだけで一緒にいるということにもなる。

その人本人にとっては、心を出すよりも取り繕う方が楽なのかもしれないけれどその刹那、相手に本心が伝わらず表面上の態度を信じさせることになってしまう。そうすれば、心を信じた方からは裏切られたと勘違いされ常に関係性も深まらずいつの日か離れることになってしまうものであると思う。

それでは絆も縁も、深まらず積み上がらず厚くならないからである。

これは人間関係にはいつも付きまとう問題であり、人は本心からの楽しい関係が本当の意味で楽な関係であり、形上だけを取り繕うのは疑心からであるから楽な関係なだけという違いに気づいている人とそうではない人がいる。

善い出逢いを繰り返し、素晴らしい関係を築ける人はいつまでも本心から楽しい関係を築いているのである。

付き合わないと生活が困窮するからや、何か不便だからや、今さら変化が嫌だからという感情的なモノサシで依存するともはやそこに本当の関係は生まれないのである。

人は元々、良心という善の心、つまり徳といった人間性そのものを引き出し合うことで互いの気持ちをあわせて思いやりに満ちた間柄を築き上げ社会を構成し最後には大きな仕合せを事で成すことができるもの。

それは人生のパートナーとも、命を懸けた戦友とも、道の同志ともすべて本心や本音が語り合えてこその真の協力ができる。

しかし人は様々な出会いもあれば別れもある、その時機ではなくその相手ではなかったというものもある。善悪は決められるものではなく、自分が最善の善の心であればいいだけである。

一期一会に自分の本当の心、つまりは善の心でどうあるべきかを思い何よりも他人に実践していきたい。

この先も何があるかは分からないけれど、自分の善の心に偽らないように日々を実践していこうと思う。