畑に出てじっくりと雑草を観察していると色々なことにいつも気づかされます。

春からはじまるいのちは、春から夏に向け種から芽が出て実をつけ秋から冬にかけて種になり土に還ります。そして今度は秋からはじまるいのちと交代し別のいのちがめぐります。

草といっても、四季があるようにはじまりが春の草と、夏の草、秋の草、冬の草があるのです。

不思議ですが、同じ場所で同じ土に生まれても季節を分かち合うことで2つのいのちがめぐろうとするのには自然の智慧を感じます。みんなが同時に出てきたら活躍する場もありません、その季節季節に何が活躍するのかを交代で行うのはここに静動の法理があるように思います。

この季節に合わせて太古の人達は、どの時期に何を食べるのかということを考えたのだと思います。そしてその種を持ち帰り、周囲に蒔いたのだと思います。基本的には今のような飽食な時代ではないのだから、いのちを繋ぐため、生命を維持するために保存できるものを中心に育てたように思います。

飢餓がなくなったと感じるのも最近のことで、人類はずっと飢餓や飢饉との闘いに明け暮れたともいっていいと思います。それは自然の中に生きるものには必ずついてくる業であるからです。しかし矛盾もあるのですが、その御蔭で私たちはいのちをいただいているという実感を身近に感じ続けることができ自然の調和を感じたように思います。

そしてそれを維持していくための主としたのは稲によってではないかと思うのです。

人類は稲の御蔭で、一年中食べものに困らないで生活をすることができています。この国の神話の開闢も全ては、稲を持ち、稲を蒔き、稲を広げたところからはじまっているともいえます。 それは稲を育てる中で人は協力し、人は一年を通して学び、そして人としての在り方を稲から学んでいたからのように思うのです。

稲を育ててみたら、人類の在り方を感ぜずにはおれないからです。

稲には、種蒔き、田植え、水の管理、成育の見守り、自然との共生、収穫への感謝、豊穣の祈り、次代への推譲など、様々なことに気づかされます。まだまだたくさんのことを教えてくれるかもしれません。

だからこそ本来は稲を育てることは私たちが忘れてはならないことを記憶するためにも共にパートナーとして歩んできたのかもしれません。自然は互いに共生する相手を選ぶのは、それが共に忘れてはならないことを生きながら刻むことができるからです。

この時期の、黄金色の田畑を見ていたら懐かしさと共にとても美しく感じます。
この国は、何よりも稲とともに育ってきた歴史を有する場所であるのです。

もう一度、原点に帰り、失われそうなものを憶え省み、新たな出発にしていこうと思います。