ふり返りでふり還る

先ほど無事に帰国し、帰宅して今は一休みしています。

今年も色々と学びがありましたが、ふり返りについて深めることができまた有難いご縁をいただいたことに感謝しています。

ふり返りという言葉は、その意味を自分で掴んでみるとその体験したものに気づくことで現実のものに換えるということができます。例えば、日々の起きる出来事を同時に省察したり熟考したり内省をしているから今、何があっているのかを自覚します。

よく忙しいからといっては流される人は、単に内省をする癖がなく内省をしないからまた次の日には次の日の経験が上書きするから理想と現実の間がどこであったかもわからなくなるのです。時間は有限ですしご縁は紡いで積み重ねるのだから大変勿体ないことと思います。

もともと内省するのは、自分が体験した気づきを現実世界に投影していくために行います。
それが生きているということですし、人生で学んでいるということです。

この体験は一体何だったのか、これをするのはなぜか、何のために行うのかと本質という理想と現実の間に観える中庸の世界、つまりは「本当の自分の今」を正しく認識できるのです。

よくズレたとか、また刷り込まれたとかいう人がいますが、単に内省が不足しているだけです。

例えば一日をどう過ごして何に気づいたか、あれは何かをふり返ればその意味が何に繋がっているのか、そしてどのようなカタチになっていくものなのかを気づき、その気づきをまた深めて真実や本質に辿り着くのです。

人生は生きていても、ふり返りをしなければ実際には仮想の世界で生きているようにしているだけのこともあるのです。だからそうやって日々にふり返りつつ歩み続けることを正しい実践というのです。実践をしたかどうかとかするかどうかではなく、これは実践できているということはちゃんとふり返りという内省をしましたよという意味であるのです。

せっかく生まれてきたのに、内省しなければ業務をこなすかのような日々になってしまいます。人生は短いのだから、時間を惜しんで学びをしていきたいと思うのが人情であるはずです。

それに人間はふり返ることで、本当の使命にふり還ることができるのです。
言いきれば、ふり返りのない人生は自分の人生ではないのです。
自分の本当の人生にふり還るのも体験した気づきを内省し実践することで観るからです。

どんな事情があったにせよ、忙しいからふり返れないとか、ふり返る時間がとれないとか言い訳をするのではなく、そういう時こそ離れたところから主観的な自分と客観的な自分を重ね合わせてもう一度自分を省みて本来の自分の姿のままでいるための実践が人生の陶冶でもあります。

もし流されふり返りをしないで生きてると、あっという間に体験も気づきも学びのキッカケも過ぎ去ってしまいただ時間が流れます。

この人生は一度しかない一期一会なのだから、体験や時間が過ぎ去るだけになるのはあまりにも勿体ないのです。二度とないこの人生を深く味わい尽くして体験を感じて学びの実践を大切にしていきたいと思います。