刷り込みの自覚

人間は、そのままにしていれば自分で考えて行動する生き物です。誰かが教え込んで刷り込まなければ自らの頭で考えて心に従い行動するように思います。生まれたての赤ちゃんや幼い子どもが自由に遊ぶように自分らしさのままに自分のやりたいことに懸命に生きていきます。

しかし何かしらに刷り込まれてしまうと、自分で考えるのをやめてしまい他者に依存してしまうようになります。量産型の教育によって、ある特定の人たちに都合がよい人材にしていくために利用すると、考える前に答えを暗記させたり、評価という仕組みを使ってその人をコントロールすることで主体性が失われていくのかもしれません。

よく今の自分の本来の状態が一体どうなっているのか、そこから振り返る必要があります。

例えば、マジメであることが正解と教え込まれ、努力し頑張っていることを周りに理解してもらうことで評価されてしまうと、無意識に周りを気にして自分だけが楽しいことをしてはならないと思い込んでいたりします。特に日本は、出る杭を打つように好きなことをしたり目立っていたりすると嫉妬されたり炎上したりと、空気を読まず他の人と異なることをすることはよくないことだという認識があります。

本来は、それぞれに個性がありそれぞれが苦しい中でも自分の好きなことをやっている努力を行うのだから邪魔するのではなく尊重して一緒にそれぞれの道を理解し合えばいいのです。同じことを上手にできる人材、平均的の上の部分になれば優秀と呼ばれエリートととして評価される人材、階級によって分別し指示命令に忠実に従う人材ばかりを教育するから画一的である自分と異なる人への差別が増すのです。差別があるからこそ、自己肯定感も低くなり、他人の自信を奪い、自分自身も自信を失ってしまうのです。本来生まれながらにして、すべてのいのちはみんな違ってみんな善いのです。

他にも刷り込みで代表的なものの一つに、「すぐにわかること」が優秀だという言葉があります。戦国時代の毛利元就の三男の小早川隆景に「すぐわかりましたという人間に、 わかったためしはない。」という言葉もあります。

このすぐにわかりましたというのは、自分の頭で考えずに指示命令に直ちに従うときに使われるものです。本来は、理由も背景もあるのだからたいして聴いていないのにすぐにわかることなどはあるはずがありません。すぐにわかる人を優秀だとし、一言えば十を知る人間を最優秀と持ち上げます。特に「なぜ?」と聞き返す人のことを頭が悪いとか出来損ないなどと言って罵倒したりする人もいます。自分に忖度したり自分の言うことを聞く人間を育てようとするからすぐにわかることを要求するのです。本来は戦略を持ち、方針や理念がある中でそれがすぐにわかるというのなら、長い時間をかけて共に対話を通して一緒に物事を深め続けるほどの同等の危機感や問題意識が必要になります。つまり日ごろから一つになっていて運命共同体であるから全体意識も通じ合うのです。

たいした問題意識もなく、自分の頭で本質を深掘ることもなく、言われてすぐに「わかりました」と言うから分かった気になって本質から外れるのです。指示命令をどのように遂行するかは考える癖が沁みついてしまっているのです。これは先ほどのような考えさせないための刷り込み教育を施されたことによってそういう思考回路になっているかもしれません。

主体性や自主性は、まずこの自分の中にある刷り込みに気づくのが先です。そしてその刷り込みを取り払うために、自分自身が本質を深め続ける訓練をしたり、分かった気にならないために質問をし続けて問い続ける鍛錬を続ける必要があります。

そうやって誰かによって無意識のうちに施された刷り込みを取り払うことができれば本当の自分が地中から芽吹いてきます。その芽をしっかりと育てていき、自分で育つことができれば主体性は取り戻せます。

自分で考えていいと自分の脳や体に信じ込ませるのは、心の対話が必要なのです。子どもたちが主体的に自らの人生を自分らしく歩んでいけるように、一円対話などを通して心をオープンにする環境を弘めていきたいと思います。