本物の暮らし

昨日は、千葉県神崎にある藤崎農場のむかしの田んぼで草取りや伝統衣装の体験をしてきました。日本の民族衣装というものを改めて観てみると、田んぼの景観と相極まってとても色が鮮やかに感じます。今は、洋服で海外からのものばかりを着ていますがそれはその土地のものではありません。

やはり砂漠には砂漠で生まれた民族衣装、北極では北極で生まれた民族衣装、それぞれの地域や文化、生き方や智慧を纏っている衣装を観ると、学ばずして学び、心はその智慧をそのままのカタチで伝承できるようにできているのを知りました。

午後のふり返りの中では、むかしと現代の農業の違いなどについて語り合うことができました。むかしは、農家は生産物として大切に生き物たちの生態系を極力尊重しながら稲を育てていた方が安心し稲の暮らしを守れると信じていました。現代は、農家は工業品として稲を改良し、稲を加工することだけに集中していきます。

日本はむかしからの生産物としては稲だけではなくイ草、葦、萱なども、大切に暮らしの中に取り入れていました。里山に見られるように、すべての自然と一緒になりながら自分たちの分を分けてもらいながら謙虚に「生産」をしてきました。その「生産」をするなかで、活動することで私たちは生産活動としての生活を営みました。今の生活はむしろ加工するのみのものに変化していますからむかしと現代の違いは「暮らし」があるかどうかということになります。ここでの「暮らし」とは何かということです。

例えば、稲を種から育てて収穫しその八十八のプロセスをしっかり体験してみるとそこにはお米ができるまでの背景を知ることができます。今では簡単にコンビニでお金を出してレンジでチンしたり炊飯ジャーに入れれば勝手にできてしまいます。しかしそれで「いただきます」といっても、なにをいただくのかは分からないはずです。

実際に、農家になってお米を生産しているとその苦労や大変さが身に沁みます。そしてそのお米作りの大変さを知れば知るほどに、やってみればみるほどに自ずから「いただきます」の姿勢や心になっていきます。つまりはこのお米を食べるために、どれだけの方々が働いてくださっているのか、それがどれだけ自然の恩恵を受けたのか、そしてなぜ美味しいのかということを感覚で感じるのです。そんなものを教科書で教えたからわかるはずはなく、自分で汗をかいて苦労するからこそそのいただきますの言葉が本物になっていくのです。

私も自然農をはじめてから、自然が育てるものの凄さ、何もしなくてもびっしりと詰まった味や栄養をもっている自然からいただくものの偉大さを身近に感じるようになりました。

無理に肥料や農薬を与えなくても、野菜そのものの持っている力を引き出してあげれば本当に美味しいものができあがっていくことも知りました。愛情深く、見守り、そのものの育つ力に少しだけ手を貸してあげれば育つように育ちます。しかしそれには、熟すための時間と、熟すために必要な熱量や愛情が必要になります。

生きることの根を育てていくというのは、日々の暮らしを大切に生きていくということです。ここでの暮らしは、単に日常的な生活全般のことを言っているのではなく、自分が活かされていることに感謝しながら生きていく暮らしのことです。

自分中心に自分勝手に、自分がやりたいように人間の思い通りになっていく世の中。まるで偉大な人間様になったかようにふるまい、自然を我がもの顔でやりたい放題していますがここに本来の暮らしは一切存在しません。

子どもたちのためにも生き方を見つめ直して本物の暮らしを今一度、後世のためにも考え直す必要があるように思います。本物の生きる歓び、本当の楽しいや人生の仕合せは、むかしからずっと今まで自然や暮らしの中にあったものです。現代につくられた人間中心の妄想の価値観の延長線上の未来は今の都会そのものように仮想空虚の現実しかありません。

引き続き、子どもに遺していき譲っていきたいものを一つ一つ甦生させながら本志本業に専念していきたいと思います。