受け身

よく人から聞く言葉に「気づきませんでした」がある。

その気づきませんでしたは、その行為の源流に2つの視点で見つめてみる。

一つは、やるべきことを主体的に行い、何が何でも気づきたいと必死に行う中で積極的に師や先生、またリーダーに確認して自ら掴み取るときに使う「気づきませんでした」がある。

もうひとつは、やらないといけないのに受け身に待ちうけ、できるなら教えて欲しいと他力を期待し、師や先生、またリーダーに確認して教えてもらおうとしているときに使う「気づきませんでした」がある。

一見、今の世の中は前者が空気が読めないと言われ後者がなんだか謙虚だといわれるけれど本当はどうだろうか?

何でも自然になっていなければ何事も理に叶うことはない、だからこそ原理原則や真理真実などというものは、人それぞれで価値観も人生観もすべては異なるのだから決して誰かに教えてもらうものではないしそれはできない。

その人が自らがこういうものか、もしくはああいうものかと近づけていくものでなければ本当の意味で教授されたことではないし、そして何よりコツも気づきも自分のモノなのだから決して誰かに与えてもらえるものではない。

自分でモノにしたから他人から重宝されるし、自分のモノだから誰からも真似はされないしされても動じないで本懐をなせる。

しかし今は与えられ教えられる教育が当たり前に優先され、本人が主体として動くことよりも刷り込まれた受け身のケンキョをやっていれば必ず周りが可愛がってくれるという誤った常識を持たされている人が多い。

私が以前、留学した中国や英国でも何事も自分から遣ってない人は発言すらもできなかったし、そういう人が発言しても議論にはならず、師友の場に於いてはそれはとても受け身で深まらないと非難された。

何かあるときに喋れなくなるのも、自分の意見をはっきり言えないのも、そういう常日頃からの受け身の在り方によるものだと私は思う。

そして、何よりもっとも悲しいのはあまり私の好きな言い方ではないのだけれどそれを分かるように書けば「負け犬根性」というものが沁みについてくることだと思う。

例えば、「自分で気づきませんでした」というのはこの自らの在り方を見つめるとただの負け犬根性かもしれないということ。

つまりは言いかえれば、「自分で気づかなかったのにそのままで本当にあなたは悔しくないのか」ということでもある。自分の力で気づけないくらい受け身だったのではないかということ。

私は、道を歩んでいる中で心を澄ませていない間に無意識に足元のヒントを見落としていることが多々あり、至誠の実践が足りなかったととても悔しい思いを毎日のようにしている。

そうやって内省するたびに、あの時なぜ観えなかったのか、あの時、機会があったのをなぜ素通りさせたのかと、自分で気づかなかったこと気づけなかったことに対して義憤を抱き、次こそは絶対に見落とさないぞ、気づいて見せるぞと挑戦しながら向上心を深めている。

もしこれが受け身なら、内省するたびに、あの時なぜ観えなかったのかと後悔ばかりして自己憐憫の情を増やす日々を送ってしまい、自分で気づかなかったことをただの未熟さや弱さとし、ふたたび繰り返されることを見通し、挑戦するよりも事無かれ主義を優先し降下心が深まっている。

まさにこれは負け犬根性ではないかと思う。
そしてこれでは大事なことは教授を受けれない。

どんなものからも学んでやろう、どんな出来事からも掴んでやろうとしない人と話していると疲れるし、永遠に同じ話を違う角度で話すことがその人とのいつもの会話になってしまう。師やメンターも、自らが掴もうとしているから現れるのであって宝くじのように待っているものではない。

だからこそ常に、自ら負けてたまるかと思うのはとても良いことだと思う。

競争が良いというわけではなく、自他との切磋琢磨により余計なものがそぎ落とされマイナーチェンジを繰り返す中で人はシンプルになり自然体に近づいてくる。

論語の孔子にあるように七十になってからは、心のおもむくままに行動しても、道理に違うことがなくなった境地になるのもそういう積極的な日々の三省の実践があるからこそだと思う。

どんな内容だったにしても結果がどうであれ、もっとも注意すべきは負け犬根性という名の受け身である側で生きようとする不元気な心。

私は犬好きなので、負け犬というのはあまり好きな呼び名ではないのであえて言うと自らを常に積極思考で生き、何より誠を尽くす「価値犬根性」を出せるような挑戦と感動に満ちた関わりを日々増やしていきたい。