自立する組織

コンサルティングを行っていると色々な組織の問題を見つめることがある。

よくできるすごい人といわれる人がある。

その人は責任を一人で背負い、完全を目指し、それを自分のモチベーションへ転換し努力してそれ相応の力を組織へ発揮していて周りらすごい上司やできる人として尊敬されている。

その人は一見、何でもできるように見せるけれどよくその人と話をしてみると自分の弱点の克服ばかりをいつも見つめてそれを責めて自分を発奮し、自分の価値は完全なければ意味がないと必死に職責を果たすことばかりを目指そうとしている感じがある。

でもよく組織全体でものを観るとそうやってその人が自分が完全であろうとすればするほど、自分の価値が高まっていると勘違いし、自分の形に周囲をはめようとしてしまうことでより周囲をマニュアル的にしたり指示待ちになりみんなの力を阻害しかえって進化成長していかなくなる事が多い。

そういう人は、部下や社員の話を聴いているよと言っているようで実はまったく聴いてはいない。
なぜなら、その人のやりたいのは最後はその人のもっている形にあわせさせることを目的にしかしていないからだ。

もしその人の形が最高とするならば、みんなついていく人たちはその人の形にあわせてもらうことを最高の目的に仕事をするようになる。

たとえば、自分のやりたいことよりも、結局はその人の言う形に最後はなってさえいればうまくいったと言われるし、そんな気もするから自分から勇気をもって失敗したりするよりもその人の形であることを望むようになる。

そうなると、自分のあるがままが認められて貢献できたという真の自信も自分も持てず、ずっとその「できる人のいう形」でいることが最高でそれが評価だと勘違いしてしまうことがある。

その人のできる形にあわせた人がとても自分の個性を発揮する人とは思えない。
その人そのもののあるがままの姿が光るから、皆の力を引き出し一丸となることができると言うのは私の組織における考え方。

これは保育でもそうだけれど、子どもたちの遣りたいことをまるごと認めていかなければその子らしさが光らない。光るには子どもたち自身が、方針やその目的を何かにより理解する、できない場合は環境を用意するなどで安心して自立できるようにしてくようにすることだと思う。

私も師匠と仕事をする中で、いつも色々なことを確かめている。

そこで確かめているのは、方針、方向性とどこまでが自由なのかという範囲の確認、つまりは自分の役割と責任などの権限範囲の確認などであることが多い。

「こういうことをやりたいのですが、よろしいでしょうか?」

と質問したとしてもそれが上司の持っている形を探ろうとするのと、自分の役割と責任を確かめているのでは同じ言葉でも全くその意味は異なる。

当然、探っているばかりをやっているとそれからズレテいないことばかりが気になるようになり動きが委縮ししてしまう、そうなると新しく創意工夫して自由に自分らしく失敗したり成功したりして生産性を上げていくことはできない。

しかし、もし自分の役割と責任が正しく確かめ理解できていれば上司と同じ問題意識と危機感で一緒に進めることができるようになる。なぜなら、求めていることは形ではなく方向性や将来のあるべきようであることを知れば発想が無限に豊かになり、そのために自分が成功したり失敗することは当然全体が成長し生産性が上がるためにも必要な糧だと思えるからだ。

日本の社会は、つい先生の持っている形にあわせて勉強をする機会が多い。
先生が求めたことに答えたらそれが評価される仕組みがある。

しかしそんなことで本当にいいのだろうか?
評価とは先生が最高で生徒がその枠内で行うことだろうか?

本来は決してそうではなく、先生とは全体の方針や方向性を子どもたちへ示し、その子のやりたいことをやれるように丸ごと認め支援していくことが将来本人が自立して社会のお役に立てそのことで満たされ幸せになれる生きていく力を手に入れることにならないだろうか。

だからこそ先生は学び続け向き合い続け、今、世界で起きている問題を良く洞察しその中から根本にあったような自然のように静かに調和されるように歪んだところを本人たちに伝えて考えてもらうようなキッカケなども与えていくのだと思う。

人間を信じて認めることなしに、安心できる社会ができるはずがない。

話を組織論へ戻すと自立や自分がない状態で完璧主義の人や上司についていると形を探るようになるから、上司も部下もそこを正すことだ。

上司は、探らせるのをやめさせ方針やビジョン、権限の範囲を伝えること。また部下は探るのではなく、自分の役割と責任の範囲、方針を理解しどこまで良いのか悪いのかを知ることだと思う。

気をつけることは役割と責任と権限の範囲を知らず、ただその人らしくといってもそれは単に無責任に自分勝手にやればいいということではない。

そこに上司の方針を正しく把握し、どこまで権限があるかを自覚できてはじめて自由に自分らしくいることができるということを知ること。

子どものことを思うと、そういう完璧主義な人がクラス担任になるといつも子どもたちを自分の形にはめようと躍起になってしまう。そうすると気になる子や配慮児はいつも自分らしくいることができなくなり抑圧され苦しむことになる。

もともと人間は色々な人いるし、短所があるから長所があるのだからそのものの存在を認めていくことがなければ長所が引き出されなくなる。

短所ばかりの組織にするには完璧主義に管理すること、しかし長所ばかりの組織にするには見守りあるがままでいることを選択することだと私は思う。

私はカグヤの組織を使って保育を表現し、より多くの先生方に勇気を与える存在になっていきたい。