守る

見守るということを深めていくと、まず見るということがある。それは、何を観ているかという自分の在り方を大事にすることだとし、信じると言うことは何も抗わなく排除しないすべてをあるがままに受け容れる心のように思う。

今回はこの「見る」ではなく、「守る」の方について考えてみる。

先日、子どもを守るということである園の職員会議の話し合いに参加した。一概に守るといってもいったいその何を守っているかによる。

例えば、発達を守るでも自立を守るでも何でもいいけれど不思議なことにあれだけ守る守ると全員でと約束していながらできていないことが多く、そのできないことの話し合いばかりが永遠に繰り返されていてみんなが色々疲れてきていたりする。

誰かがそういう約束やルールを平気で破り、自分からその意味の価値を下げていく。

私は共生とは、「一人で生きるために、みんなを大切にしていくこと。それがみんなと生きることになり、自分を大切にしていくこと。」だと思っている。

なのにできないのは私心や私情をそこに挟むからだと思う。
これをエゴとも言う。

しかし、公の集団、昔でいえば会社は公儀というものになる。義理と筋道があって人の世のために創られた社会の組織ということだ。

その組織が明確に信条としての筋道であるその大義としての理念を掲げて遣るのだから、「守る」のは私心や私情ではなく、公のため、つまりは世のため人のためここでは子どものためなのだからまずその公儀を優先することを明確にしなければ誰かが私情を言いだすときりがないし、それでは価値も何も守ることはできないのではないかと私は思う。

そして守るとは、私は師匠から両立ではなく優先順位を決めることだといただいたことがある。年々その言葉の深さや有難味が骨身に沁みる。

論語、「大学」のこうある。

「物に本末あり、事に終始あり、先後するところを知れば、即ち道に近し」

この先後とは文字通り優先順位のことを言うのだと思う。

もちろん正しく守ろうとすればするほど常にその時どきの判断する心が澄んでいることが求められる。そしてそれは急にはできず、日頃の正しい生活や心ばせを誠にする実践が求められ、そういう本懐を遂げるための日ごろの準備や自分の在り方の定石により次第に咄嗟の判断ができるようになるのだと思う。

よく見通していたけれど今回だけ判断ミスでしたとあるけれどどうだろうか。

農作物でもそうだけれど、いくら一年を見通したとしても天気は変わるものだし、急に台風が来たからや嵐だったからなど言いわけしても予想はできない。いくら経験で見通していたとしても自然現象まで見通せず、それは人智を超えた処にある。

人で言えば、病気も生き死にも、出会いも別れもすべては自然現象だし、子どもで言えば、発達も気づきも感動も感謝も自立もすべては自然に起きること。

常日頃から用心して、生活を自律して自らを正しくしていることがそういうものとうまく長く上手に付き合うことになる。つまりは玄人のようになるということ。

こう定義すると玄人つまりはプロとは、相手を思いやり何かを守るために私情をいれずその時々で真心の実践で自分を後にし相手を優先すれば必ず良い判断ができるようになっているということ。

すべての判断は自分が入っているのと入っていないのでは為すことは異なる。
プロ意識とは、そういう自分の都合を仕事に入れないことだとする。

例えば、どんなに人のためとやっていてもそれを自分のためにを先に打算にいれればもうそれは人のためではなく自分のためになる。

本当に自分を交えず、相手の心に耳を傾け、相手のためにだけ自分を尽くしていけば他人のためになる。上司のためといいながら自分のためにやっている仕事はやっぱり私情を挟んでいて投げっぱなし遣りっぱなしになっている。それでは何も守れない。

私は守るものはいくつかある中で、もっとも大事なのはそのものの意味や価値を守ることだと思う。

なぜなら物事は決してその都度の自己判断による良し悪しではなく、そのものの存在をまるほど受容し、そこに無限の価値を見出し心底存在に感謝しなくてはならないものだと思うし、愛や優しさ、思いやりというもので包むことではじめて守ることができるようにも思う。

相手を深く信じ、相手の生きようとする気持ち、相手が徳性を活かそうとする気持ちにどこまで深く共感できるか。

すべての生命は、そうやって相手を思いやり共生している。

常に、自立と共生の本質を見つめながら本気の実践により見守っていきたい。
守るにはまだまだ力と器が要る。

自らをもっと奮いたて、さらに子どもたちの未来に自分を尽くして生きたい。