御互い様 〇

大人になるというのは、自分の思い込みの中でいようとするということかもしれません。

子どもの頃に当たり前だったことが分からなくなってきて、頭の中で憶えたことでうまく世の中を渡っていけるようになるものです。しかしそもそもを考えてみれば、未熟さというものは一生涯変わらないものでその未熟な人間が他人を育てたり他人に教えたりしているのです。

例えば、先生と言われる人たちも親と言われる人たちもまた仕事でプロと言われる人たちですら未熟さを持ったままで生きているように思います。

だからこそ時間をかけて成熟していく中で、様々な出来事が起きてそのことから深く学び生長を続けていくのです。もしも未熟ではなかったならと時折、悔いそうなときもありますがそれは本来は違うのです。

未熟者同士だからこそ、御互いの苦しみや歓び、幸不幸をシェアしていくことができるのです。

人はそうやって魂をいつまでも研鑽し、高め合う中でご縁を結び、そしてより澄んだ共感を得て共生の美しさに気づいていくように思います。かつては、逆の立場であったものたちが、今回はまた異なる立ち位置で学び合う、自他一体の境地で相手を思いやれば相手こそが自分で自分が相手であるのです。

だからこそ未熟は未熟なりに、正対し真正面から取り組んでいくことが誠意であろうと思います。お互い様というのは、真にお互いを共感するときにこそ感じられる境地かもしれません。それはまるで円環しているように〇く廻りつづけるものかもしれません。

学び合える人がいることがご縁の神妙さかもしれません。

今の風に吹かれて、回り逢う友に愛と感謝を手向けたいと思います。

  1. コメント

    一人でなんでも出来て、人に頼らないような人物であれば、お互い様とはいかないと思いますが、相手のことを思いやれたり、感じ入ることができるのは自他ともに至らない点を共通理解しているからなのだと思います。得意不得意がありながらも、不得意な方に目が行くのは自分を守るために攻撃をするか、自分と同じ不得意な人を探すからなのかもしれません。人の得意なところを見ると自分と比べてしまいますが、自分も得意不得意があることを認め、相手の得意なところは学び苦手なことがあることはお互いさまと全体で関わっていきたいと思います。

  2. コメント

    未熟さは自覚してこその未熟だと感じます。そして、自覚するにはまずは動く、行動することだと感じます。動かずに未熟さを知ろうとすると、分かった気になって行くのだと思います。
    そういった分かった気にならず、行動の中で未熟さの自覚を繰り返して行く自分でありたいと思います。

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