自分を尋ね、道を訪ねる

道を歩んでいく中で先覚者という人たちに出会うことがあります。

私の師もそうですが、その後ろ姿からどのように道を歩んでいるのかを学び習い歩んでいく楽しさを味わっていくことができるのです。他にも何百年も何千年も時のふるいにかけられても残存している書物や言霊、その生きざまや思想にも道の心得が学べます。

畢竟、この世に何をしにきたのかと問われれば人は学びに来たといっても過言ではないと思います。だからこそ、真我というものに気づけるかどうかはとても大切なことであるように思います。

人間には感情がありますし、根深いところに我が入るので真我といった無我の境地でいることはなかなかできません。いくら自分が素直になったと思っていてもそれは怪しいものだったりするからです。ただ穏やかでいることと静かでいることと、真実を信じるというのは同じことではないからです。

先日、師が常に他人の話を聴いて自分を確かめるようにいるのではないかとインスピレーションがあったのも道はそうやって正しいかどうか確かめていくものであるからかもしれません。そうして自分でいくら善いはずと思い込んだとしても、そのどこかに我が入り混じっているかもしれない、気づいていないかもしれない、そう自戒しているようにも思うのです。

だからこそ無我の境地や素直な姿というのはいつも周りを信頼して今の自分を正しく観つめては道が正しいかを確かめていくのかもしれません。自分の中には、自我と真我が存在していて共存して日々の生活を送っているものですからどちらの自分も自分ですからこのバランスを維持していくには多くの矛盾を抱え込まないといけないからでしょう。

だからこそ、自分でバランスが取り難いのだから他人を頼り、信じている証として、まずは相手の話を傾聴していく姿勢を忘れないでいることのように思います。分からないときは道を尋ねる、不安なときは先覚者に習い道を訪ねていくのがいいのかもしれません。

道は一人ではなく、仲間がいるから楽しいように思います。この時の仲間は別にただ一緒に居る仲間のことではなく、何を信じて生きるかを持っている人たち、同志と一緒に歩んでいるのだという楽しみのことです。

距離も時空も場所も超え、正しい道を一つ心に歩んでいこうとすることが天にお任せしていく生き方なのかもしれません。学びを昇華し、子どもたちに少しでも自分を譲っていきたいと思います。