原点回帰

よく読書や他人から聴いた話を理解した気になることがあります。

世の中には、様々な道理や真理がありそれを聴けば一応に頭は理解していくことはできます。しかし実際は、自分のものになるのはそのずっと後のことであるほうが多いように思います。

例えば、師から私淑した道理についても諭されたからとそこではまったく理解できず長い年月の真摯で直向な実行と実践の中ではじめてその意味を掴んでいくことができるからです。私の場合も、いつも教えられたことをノートに記し何度も実践してはまた読み返していく中でこういうことだろうかと自問自答してある時、また確かめ、また私淑し自分の心身へ透過していくように学んでいます。

しかし焦りや不安があれば、それをすぐに頭で理解したところでやろうとしますがそれでは一向に道理を学んでものにしたわけではありません。人は、まず実践していくことを優先し、長い年月の中で一つ一つをカタチにしていくことこそが本来の学びの姿勢であると思えるからです。

森信三先生の言葉に、下記があります。

「実践しなくてもわかる程度の道理は、大したものではありません。自ら苦労してやってみない限り、真理の門は開かれるものではありません。」

自らの苦労なしに、真理の門は開かれない。

まさに至言であろうと思います、いくら知ってもそれはやっていないのなら真理ではないということ。つまりは実践していくことこそではじめてその門は正しく開くということを仰っているのでしょう。誰でも知れば悟れるのなら、偉い人になってしまいます。

掃除一つでさえ、その人の掃除が人生を懸けたものであれば同じことをしていないのに分かるはずはありません。何となくいいものだろうでは、それは真理に対する姿勢が歪んでいるのです。善いものは心から覚悟し実践すると決め取り組んでいく中で、その人まではいかなくてもその人の言おうとすることが分かる気がするところが真理の門であるように思います。

すぐに保身から責任を引き受けることを恐れ、単に結果さえ出せばいいという現代風の価値観で物を語るのではなく、決めた原点回帰を継続していくために実地実行のプロセスを大事にしているかどうかが生き方の姿勢に顕われるように思います。形式的にだけやったり、便宜的にだけやったりしても、それは本気でやっているわけでないのだからいつまで経っても現状が変化することはないということです。

実践することで正せることも大事ですが、実践しないことで不正になってしまうことがあります。いつも誰かに与える側でいるのか、いつも誰かから奪う側でいるのかもその生き方が決めているように思います。与えられているからと言って、それに甘んじていたならばそれは自分の本来の自発力を使っているわけではないのだから悪循環の流れに乗っかってしまうのです。

門を自ら開けるのも自分、門外の塀で佇んでいるのも自分。

何をもって自分を律していると言えるのか、本来の正しいことを行うとは何か、もう一度、原点回帰し深め実行し直したいと思います。