好奇志心~時の旅人~

人は生き様の中にその人の思想や哲学が籠っています。それは時間の中に顕れてくるように思います。どのような生き方をするのかは、その時間の過ごし方にあるようにも思うのです。

時機というものは、待つものであり単に待てばいいのではなく丹精丹念に日々の努力精進をしながら待たなければならないことばかりです。それは自分の心との正対であり、自分の精神との正対でもあるように思います。

忙しいくらいで自分を見失っているのでは、本来の生き方がまだまだ自分の都合が入っているからかもしれません。どれだけ壮大な夢のために自分を使うかはその人の志如何に由るものだからです。

運命があったとしても、その運命のせいにせず半分は自分の意志で覚悟をもって歩むのが志士のように思います。

吉田松陰の言葉の中に「聖人の胸中は常に多事(多忙)にして楽しむ。愚人の胸中は常に無事(暇)にして楽しまず。」があります。

意訳ですが、(生きとし生けるものの心の幸福のために生きる人の精神はどんなに忙しくても心から楽しむことができる。しかし一般的な人の精神は時間があったとしても楽しむことができないものだ)ということです。これは多難にして謙虚に感謝し、無難にして傲慢に怠慢と言ってもいいかもしれません。

自分の時間ではない人は、常にそれが意味があって意義がある時間だと自分を使い切ることができます。しかしそれをいつも自分のためだけに使っている人はその時間の意味も意義も知ろうともしないのだから面白くないのです。

時間というものはその人の志が入ってきます。いつも世の中のために自分を使う人は、自分が使われていることに仕合せを感じるものです。しかし自分の欲望ばかりを優先している人には、使われる喜びに出会えません。学問は、勉強することではなく人生を生き切ることですからそれを楽しんでいるかどうかはどれだけ自分の真心に能動的実践をするかということです。

「学 ゆるむべからず、一日をゆるめば、まさに大機を失せん。」(学問は決して弛み怠ってはいけない、やったりやらなかったりをもしも一日でもやれば偉大なチャンスも全て失ってしまいます)と吉田松陰も言います。

天命を待つからこそ学問を怠らず真剣に打ち込むことができます。その天命とは、その人の願いに対して応じるもののようにも思います。

人は自分の考えではどうにもならない現実の中でもどれだけ魂を輝かせるかはその人の生き方次第、生き様次第です。同じ人でも観え方が変わるのは、人間はみんなその魂の生き様に憧れるからです。

それは羨ましいのではなく、自分から憧れるということです。憧れて入った道ならば、その道が楽しくないはずがありません。その憧れこそ童心であり、その人の本質、そして初心でもあります。

「志をもっている人間は、何かを目にしたら、必ず心中に感じるものがある。」

好奇志心のままに内省を片時も怠らない楽問をしていきたいと思います。