志士の実学

日々というのは学びの連続です、何のために学ぶのかというのはその人の生き方ですが何のために生きるのかとなればその人の理想があります。人を愛するものは、人々の仕合せに生きようとします。人類が求めて已まなかった夢のために生きようとするものたちが自分の身を顧みずに義に盡す時、志士が顕現するように思います。

歴史の中で何度でもその機会を与えてもらっては、善悪を超えたところで生き続ける魂はその後の子どもたちの魂の模範になっているように思います。教えというものは、時代を超えて語り継がれているのはそれが本物の教えであるからです。本物の教えを継承するということは、本物の生き方を同時にできたということなのでしょう。そこには実学といった知行合一の生き方があったのです。

道元禅師の「正法眼蔵」の中に白楽天の話が紹介されています。タイトルは「諸悪莫作」といいます。これは史実ではなく後から仮定された話だとも言われますが、白楽天と道林禅師のやり取りの話です。

昔、白楽天が中国の杭州の市長のような仕事をしていたころ、樹の上で暮らし修行をしている仏教の覚者である道林禅師を尋ねました。その際に「あなたは仏教の悟りは何だと思いますか?」と聞きました。

すると道林禅師は「悪いことをせずに人々に善い実践をさせることです」と応えました。白楽天はそれを聞いて「そんなことくらいなら3歳の子どもでもみんな言いますよ」と返事をしました。

道林禅師は「3歳の子どもにもそれが言えても、80歳になるこの老人がいまだにそれを実行実現できないではないか」と言います。それを聴いて白楽天はただ黙礼しかできないでいたという故事です。

白楽天は中国の詩人で仏教徒でもありました、白楽天は中国の試験科挙にも合格するような秀才であり知識も豊富でした。その白楽天がこの道林禅師に参禅して多大な影響を受けたのではないかと私は感じました。白楽天が後に文字の読めない老人に自らの詩を聴かせ誰にでも理解できるように真摯に思いやりの改善に努めたこともこの「諸悪莫作」の故事に通じるものがあり心に響きます。

善悪を超えた思いやりを実践するというのは、その模範があってはじめてできることかもしれません。教科書には書いてない答えがあり、全知全能の知識の中では想像できないところにあるものが実学です。

自分の人生を懸けて学ぶという姿勢が志士ですが、その志したところが間違っているのなら以上の白楽天の話も本意が違って聞こえてしまうのかもしれません。

吉田松陰に「ああ、世の中に研究や読書をする人物は多いが真の学者がいない理由は、学問をするにあたって、その志がすでにまちがっているからである。 精魂を傾けて政治にあたる君主は多いが、真の名君がいない理由は、政治を行う最初において、その志がすでにまちがっているからである」

白楽天が目指した理想が何か、他にも志士と言えるものたちが目指した社會は何か、そこを間違うと実学が実学ではないものになるのかもしれません。何のための「知行合一」か、何のための「体認」なのか、「実践」というものは其唯夢のためということなのでしょう。

「己に行う者を以て、是れを子々孫々永々世に伝ふべし。」(吉田松陰)

自分で体験したことを心で呑みこむことで学んだ智慧を、実地実践して後世に伝えていくのが「志士の実学」ということなのでしょう。孔子は志士のことを「志士仁人」と言いました、初心を忘れず真心を籠めて日々に学び直していきたいと思います。