心徳の学~理想の政学道場~

吉田松陰をはじめ西郷隆盛などたくさんの人物が大きな影響を受けた人物に熊本の横井小楠(1809年9月22日~1869年2月15日)がある。

今の近代教育に警鐘を鳴らし、本来の学問とは「学政一致」だということを述べました。

もし政治と学問が分かれたならば学校が弊害になり、人格を形成するよりも御互いを中傷しあうようになり、才能が有る人間は自分のために政治を利用しようとする人物が育ってしまうと見抜きました。

学校と政治の一体とは何か、それは本来、己を修め人を修めることであり、君臣共にお互いを戒め合い切磋琢磨しながら民衆が健やかに暮らしていける世の中を創りあげていくことであると喝破しています。

それが学校が政治の道具としてだけ用いられるようになると利己的な人物が育ち自分さえよければいいという人物が増えることで必ず社會に害が出てくるであろうと推察しています。現に今の教育をみていたら、明治以降の政策が変わっておらず、富国強兵と殖産興業に役立つ人材育成、つまりは国家にとって有能である人物を教科するようなものが多いように思います。

特に横井小楠がもっとも危惧したことに戦争のことがあります。それを下記のように述べています。

「西洋の学は唯事業之上の学にて、心徳上の学に非ず、故に君子となく小人となく上下となく唯事業上の学なる故に事業は益々開けしなり。其心徳の学無き故に人情に亘る事を知らず、交易談判も事実約束を詰るまでにて、其詰ると処ついに戦争となる。戦争となりても事実を詰めて又償金和好となる。人情を知らば戦争も停む可き道あるべし。(中略)事実の学にて心徳の学なくしては西洋列国戦争の止む可き日なし。心徳の学ありて人情を知らば當世に到りては戦争は止む可なり。(「沼山閑話」)」

意訳ですが、(西洋の学問は事業利益を行うために実施される教育であって、徳を学ぶものではない、それゆえに聖人とか小物とか上下がどうかとなく事業のために行うのだから事業利益はますます発展していく。しかし徳を高める学問ではないがゆえに、人としてどうあるべきかがわからず商談も契約上は守っても、それが煮詰まるとすぐに戦争になる。戦争になっても事実をつめてお金を払えばそれで解決ということになる。もし人としてどうあるべきかを知れば戦争もしなくても済む道もあるのである。もしも事業の学問ではなく、心徳を高める学問をしなければ西洋列国が戦争を止める日がくることはないであろう。しかし心徳を高める学問を修め人としてどうあるべきかが社會に広がるならば自ずから国際間での戦争はなくなるのだ。)とあります。

これは学校というものがどのような目的で開設され運営されるべきかというものを説いています。政治と学問が分かれているという危険が今の世の中をみたら見事に反映されているのが分かります。本来、政治とは何か、それは民が幸せになることです。その国の人達が幸せに平和に暮らせるような社會を創りあげていくことです。

しかし実際は国益を優先し、経済活動のみを奨励し、富国ばかりに邁進すれば社會は利己的な人のみを育て、常に争いや嫉妬、競争や利権ばかりで遂には戦争を誘発してしまうのです。

そうではなく、政治とは本来、己を修めて人を修める道であるとし、学問はそれを実践する人物を徳育していくものであるとしているところに学校というものの本質があるように思うのです。学校に限らずあらゆる組織の場は何のためにあるということを忘れてはならないのです。

最後に横井小楠の求めた理想の社會像が「心徳の学」として述べられていますが、これは社會に関わる職業人たちが目指す理想の姿のことかもしれません。

「学問の味を覚え修行の心盛んなれば吾方より有徳の人と聞かば遠近親疎の差別なく親しみ近すぎて咄し合えば自然と彼方より打解けて親しむ。是感応の理なり。此朋の字は学者に限るべからず、誰にてもあれ其長を取て学ぶときは世人皆吾朋なり。(中略)此義を推せば日本に限らず世界中皆我朋友なり。(「講義及び語録」)」

意訳ですが、(御互いに学問の本来の味わい深きに気づき、心を育むならば徳が高いと聴けばどんな人であろうが差別もなく自ら親しむようになり、御互いに自然にどことなく打ち解けて仲よくなる。これは磁石が鉄を吸うかのように自然の理である。朋という字は別に学者だけの言葉ではありません。誰であっても、その道に長けている人に学び合う時はみんな学友、みんな朋であるのです。この筋道を正しく推していくならば日本に限らず世界中はみんな朋になるはずです。)

利己主義が蔓延して、道を共に歩む朋が少なくなってきているように思います。これも横井小楠の推察の如くの世の中になっているともいえます。しかしだからこそ、目指した国際平和の世の中を創造するために自らが心徳の学を修め、そして道を弘め、本来の生き方によって平和な社會を育てていかなければならないと自覚するのです。此処で書かれた言葉はまるで論語の「遠方より朋来る」の学の本質そのものです。

吉田松陰が目指した維新も、それはより善い政治を行い民が安定して平和で暮らし、朋と共に学問を発展させる世の中を目指したからです。今の時代に産まれたからには、今の時代を担う私たち大人がどのような社會をつくるのかを決めて実践していかなければなりません。

横井小楠は、学校に限らず「心徳の学」を実践すべしと言いますから、肝に命じて自らがその社會を実現していこうと思います。先祖たちの声に耳を澄ましながら、道を訪ねて求めるだけではなく実地実行、かたちにしていきたいと思います。