自由の価値

先日、ある方と自由について話をする中で貴重な体験をすることができました。

人は平等とか言う前に、正直であるということが優先されなければなりません。
平等という言葉は、使う側の理屈で用いられることがほとんどです。

真の平等とは、あるがままですから自然であるのだから言葉にはしないのです。これは自由も同じく、存在そのものが自然であるからそれも言葉にして教えるものではありません。

それを人間は、平等という名目で、不平等を創りだし、偏見を恐れて従うから自分を誤魔化すようになるのかもしれませんし、自由も同じく自由といいながら不自由を恐れて仮初の自由を社会で用意してその中で一時的に安心したいのかもしれません。

どちらにせよ、平等も自由も自然の言葉であるのだからそれは勿体ないとか有難いとか御蔭様のように感謝で感じる場所のものなのです。

その平等や自由は自らが背中を見せることであり、自分らしい生き方やあるがままの自分でいることの素晴らしさは自分自身が体現することで示すことであろうとも思います。

何かを教えるというスタンスで教えるものは、どこか嘘が入るように思います。

自分の実体験で語られるものは、そこには真実が入りますが、自分が体験したこともないことを教科書に書いているから正しいを思い込み、それを教え込むとその矛盾に苦しみたくないから考えない人に為るようにも思います。

なぜ、どうしてといった、自分で考えて一つ一つの理由を自分が納得して理解し、自分のものにしたときに教わったとなるからです。これらのなぜやどうしてというのが、人間として与えられた権利であり、人間が自らを育て創造する真の自由や平等でもあるからです。

学ぶということが自由そのものであり、自由であることが学んでいるということなのでしょう。教科書に書かれている答え以外は教えないという学びなどが自由と呼べるわけはありません。その人なりの答えをどう導いていくか、その人の答えを信じてあげることができてはじめて自らの体験をその人に伝える資格が持てるように私は思います。

結局は、本に書いているのだから真実だと思い込ませ、それに異を唱える者は追放するという考え方はかつての宗教弾圧や魔女狩りの類と同じことをやっていることになるのかもしれません。今のような時代、ダイバーシティ(多様性)がもっとも求められる時代に入っているのにいまだに教育がそうではこれからの社會や世界で貢献する人材に育つのか心配になります。

本来はそのままでいることがもっとも社會に役立てるようになるはずなのに、無理に社會に役立つようにと教えることはかえって社會から離れてしまう気もしています。そのままでいい、あるがままでいい、その上で大切な思いやりや真心、素直さや感謝などを導くことが人間を育てるということなのかもしれません。

そしてもし人を正直に育てるなら、自分で出した答えがもともとあった加工される前の野生、つまり「自然」と同じようになっているということです。

自然の循環も、自然の環境も、自然の中で落ち着くのはそれぞれが正直だからです。人間の社会が自然からあまりにも離れてしまうと、何が嘘で何が本当かが分からなくなってくるのかもしれません。

そういうものの中でも自らの本質を見失わないようにするために、人格を高め、自立していくのが人間の生長なのかもしれません。自由になるには、自らの脚で立つために自らのルールを自らで守る強さが必用です。

それは他人のせいにはしないということであり、身のまわりに起きる出来事の全てのことを自らの問題として捉える力があるかということです。

それが自立しているということでしょう。

問題をまだ他人のせいにしているようでは、社會の中で自立しているとは言えません。自らが変化の源になって社會を善くしていくために自分を高めていこうと精進していくことが最期には社會貢献そのものに変化していくからです。

学んだこと、学び続けることを楽しみ、自由の価値を伝承していきたいと思います。