社會人

人間の自由というものを考えてみると、色々と想うことがあります。自由とは何かといえばこのブログでも以前書きましたが、自由自在の自由です。

決して不自由か自由かの時に使われるものではなく、その人があるがままに自由自在でいるということ、言い換えれば自分らしさを持ち自分の人生を歩んでいるうということです。

今の時代は、外圧的に様々な規則やルールを押し付けてはその人の自由というものを奪っていく仕組みがあちこちに張り巡らされています。特に学校になると、理由も教えず説明もせずに無理に強要し、規則を破れば矯正させるという非常に厳しい状況をつくりあげています。

大人の管理の下、如何に正しい行いをさせるかということに焦点が置かれているように思います。しかし、動物でもそうですが力による抑制というものは長く維持できるものではありませんし、本心から行うわけでもなく、時間が経ち環境が変わればすぐに忘れてしまうのです。

だからこそ内省をし、本人が自覚し自明するまで自らが実践をしじっと待つという覚悟が必用なのかもしれません。今は、時間がない時代ですから短い時間内であれもこれもと膨大な量の知識や規則を詰め込もうとすれば必然的にガチガチに余裕のない状況に陥るのは火をみるよりも明らかです。

その中で子どもたちは、自由を渇望します。しかしこの自由とは、不自由から解放されたい自由であり本来の自由ではありません。私は幸運にも素晴らしい師と出会い、本質を見極め自分で考えて自分で行動することの尊さに気づくことができましたがそういうご縁をいただけるような方に回り逢えるというのは今では稀なのかもしれません。

これは社會のあり方でも同じですが、権力を持ち、強烈な管理の中で人を束縛すればするほどにそれはより一層弱い立場の人達へと圧力がかかるものです。いじめの構図も同じく、余裕のなく心が閉塞するような状況下では強いものは弱いものを虐げることで自らを守ろうとする構図から発生するのでしょう。

結局はそういう社会から逃げ出すために人は、自分に嘘をつき、他人のせいにするような脳みそになっていくのかもしれません。本能は素直だったからこそ、人間社会のそういうことに流されるから自分を見失うのかもしれません。

社會とは何か、社會をどう産み出していくか、それは自分の責任です。

どのような社會にしていきたいか、どのような社會人になりたいのか、それが学ぶ目的なのかもしれません。社會に出たら、色々なことを自分なりに自分のやりたいようにできるためには、様々なことの本質を見抜き、勇気を出して世の中のためにと貢献し共生していく必要があるように思います。

つまり以上のことを一言で締めくくるならば尊い社會の一員として、「全ての問題を自分の問題」として捉えられているのかということです。

この他人事という刷り込みは今の社会ではなかなか取れず、そのために私のライフワークのほとんどがその問題に集約されてしまっているのです。

最後に本当の主体、本来の主人公、自由自在とは、自己実現のことをいうのでしょう。
正直な人たちが安心して暮らせる世の中のために理念を実践していきたいと思います。