正しい評価~実践する意味~

人は自分が人を評価する目がどうなっているのかということをメンテナンスすることがありません。自分自身の生き方から人の生き方が観得ますから、自分自身がどのような生き方をしているかが自他の評価になるのです。

人間には個々に価値観がありますからその人には観えていても他の人には観えないということが往々にしてあるということです。だから本当のことといくら言葉で語っても、その本当のことが分かるようになるにはその人と同じ実践を積み重ねてある一定の境地を体得することではじめて感得できるように思います。

「幸福の原点回帰」(文屋)というイエローハットの鍵山社長と伊那食品の塚越社長の著書の中で興味深い文章が書かれています。

『自分の体や手足を使って実践を重ねることが、いちばんだと思います。自分の体を使って実践によって、私たちは人の労働を正しく評価できるようになります。実践していない人には、他人の労働は自然現象のように見えるらしく、正しい評価ができません。たとえば、社員たちが職場をゴミだらけにして退社した後、深夜に清掃会社の人が来て掃除をします。翌朝、社員たちが出社したときには塵ひとつ落ちていないきれいな職場に戻っています。社員たちには、それがあたりまえの天然現象のように見えてしまうのです。そうした環境のもとで、人間はいとも簡単に傲慢になります。』

これは掃除で例えていますが、掃除だけの実践のことを言っているだけではありません。いくら頭でわかった気になっていくら誰もが説明しても理解しないのは、脳や人間の欲が自我に引き寄せる傲慢の方へ傾いてしまうからです。

正しい評価とは、同じ実践を積んでこそできうるもので実践なくして評価はないと私は思うのです。価値観というのは、その人の生き方といった価値観があるのですから同じ実践を通してはじめて人は評価を謙虚にできるように思います。何の実践をせずに自分の価値観を乗り越えて認めたり信じたり謙虚になることはないでしょう。

色々と会社で新しい実践を始めるときに、実践に対して色々と注文をつけてくることがあります。しかしそれは実践を通して本来学ぶもので先に文句を言うことではありません。実践を通して、もっとこうした方がいいのではないかという提案はこれは正しく評価できているということであり、実践をせずにこうした方がいいという提案はどこか評価が正しさからズレていることが多いのです。つまり正しさというのは、素直であるかということです。やってみなければわからないことを、その深さを体得しなければ理解しえないものをそのまま素直に実践してみるということができるということです。

本来の正しい評価というものは、実践による真実が的を得ているときにお互いが暗黙知の場所で理解し合うものです。それは師弟が察する中で掴み合うように、同志が苦難を伴にする中で握り合うように、確かな絆の中に存在しているように思います。

実践できるというのは、自分を大切なもののために変革しようとする素直さ、そして自分から大切な目的のために学び直そうとする謙虚さが合わさっているのです。

つまりどんなことも実践なくして評価なしということでしょう。シンプルに言えば、物事はやってみなければわからないということです。

実践の影響を与えるには、まず自分から真っ新な心でチャレンジし取り組んでみなければ誰にも何にも説得力もありません。誰かのために自分が実践することは、進んで大義のために自分を捧げる真心に似ています。その人のことを思いやるなら、自分から実践を積んでその人のためになるくらいの真心を持ちたいといつも思います。

個人の能力が高いというのもまた不足のないという意味なのでしょう。不足のない有り余る豊かさと引き換えに大切なものを見失わないでいたいものです。

実践できる有難さを感じつつ、今日も一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。