実践の重み

今の時代は児童養護や教育や保育など、言葉で仕事が分業し分類されています。省庁も厚労省や文科省で分かれ、そのことから色々な弊害が出ています。ヨーロッパの視察でも、今は省庁が融合し子ども省というように、分かれているものを一つにしていこうとする動きがある中で私たちの国はなかなか変わることができません。

それぞれの利権や今までの絡み合った関係を紐解くのが難しいからかもしれません。しかし現場では、そのことで大変面倒なことになっています。

そもそも物事は分けて考えられないくらい密接につながっています。福祉や教育というものもわかれておらず、教育が改善されなければ福祉も改善されません。その関係は前足と後足のように前後しているもので、歩めばお互いに一歩一歩バランスよく足を出していかなければならないものです。

それを片足だけで進もうとすればすぐにコケてしまうのは自明の理です。しかし実際は、お互いに前足のせいだとか後足のせいだとか文句を言っては前に進まずに停滞するというのが現状のように思います。

もっと全体へ視野を広げ、何のための行うのかということを共有し語り合い全体システムを変更するようなことが必要な時代ではないかと痛感しています。部分ばかりを変えようと固執するのは分類分けられた場所でのみ考えようとするからです。縦割りか横割りかではなく、そのものの本質からそれぞれの分野分類の人たちが集まり全体システムを考えることなのでしょう。

そのためには対話が必要です。ただの対話ではなく、お互いを尊重し認めるといった対話です。しかし今は、お互いがいがみ合いお互いの業界の批判ばかりが目につき本来の大きな目的のためにと協力することがなかなかできないものです。人間はいつの時代も相手と協力する前に自我に負けてしまうのでしょう。自分に打ち克ってでも全体を優先しようとする人たちがいなければ時の流れに準じて変化することができないのです。

かつて坂本竜馬やその周囲のリーダーたちがやったようにもっと大きなもののためにと絵を描ける人物がなかなか出てこなくなったのかもしれません。自分の人生や世代よりも大事なことのためにのみ人は自我を超えられるのかもしれません。しかし時代がそういうものを顕現させるとしたら、今は焦らずにじっくりと時を待ちつつも休まずに自分のできる実践を積み上げていくしかないのではないかと感じています。

世界各地の諺や故事にはどこも「子どもは宝」だといわれ、子どもを大切にする国は永続的に発展繁栄するといわれます。子どもが大切にされるというのは、子どものことを大人たちがしっかりと考えて子どもたちに善き世界を譲っていこうとする思いやりのある社會が実現されているということです。

それは本来は国民国家みんなで真摯に真心で行うことのように思います。仕事でやることでもありません。なぜなら子どもは親からされたことを自分が親になり子どもにするようになるものです。そうやって真似も連鎖していき子どもは育っていきます。だとしたら、どのようなことを親(大人)が子どもにしていくかというのは将来の子どもたちがまた子どもたちへしていくことになるのです。

だからこそどのような生き方をしたか、そして何を譲り遺したかということは未来そのものに直結しているように思います。自分たちが実践する理由は、別に無理にやったりやらされたりとか感情論で語るものではなく、本質的に何のために行うのかを深めているから実践を積み上げていくのです。

一つ一つの実践が如何にどれだけの重みをもつのか、それは真の目的を忘れずに取り組んだものだけが知る志を実現する世界です。今日の実践も、明日の実践も、大河の一滴かもしれませんがそれが集まって大海になることを忘れずに本気の目的のために人生を遣い切っていきたいと心新たにする体験を得ました。

やらない人はすぐに人の批判ばかりをしては実践をしようとはしませんが、そんなことも言っていられないほどに現実は厳しさを増しています。現実を直視し、本当の理想の実現のために今日も大事に実践で世界を改善していきたいと思います。