全体意識

人間は自分のことをわかってほしい、認めてほしい、愛してほしいと求める生き物です。もともと自分のことを自分が分かっていないからわかってほしいわけで、認めていないから認めてほしい、愛していないから愛してほしいと願うように思います。

自分というもののことを考えれば考えるほど、自分の心配をすればするほどにその渦の中に巻き込まれるものです。もともと「私」という字は、自分の手の腕を自分の方へと曲げている字でできているといいます。自分の側へと引き寄せようとする姿です。自分の思い通りにしようというのが私利私欲です。人間はみんな誰しも自分勝手ですから如何に自分が利他で生きるかというのは人生の課題であろうと思います。

利他とは、先ほどのことでいえばわかってもらうよりもわかってあげたいと思うこと、認められるよりも認めようとすること、愛されるよりも愛したいと思うようなことです。

言い換えれば自分の方へと引き寄せるのではなく、周囲のことを思いやる方へと与えるということです。自分のことを分かってもらいたいと思いながら相手のことを分かるということは難しいものです。これは風呂に葉を浮かべてこちらに引き寄せようとすると葉が離れていくのに似ています。本来引き寄せたいのなら、向こうへと波を送った方が戻ってくるのです。これが自然です。

自然というものは、与える人が何より与えられ、奪う人は奪われる、周りを活かす人が自分が活かせるというものです。自分を如何に全体のために活かしていくか、それは利他の生き方に転じるということです。

利他とは自分は我慢して人のために尽くすことではありません。みんなの仕合せが自分の仕合せになっていることです。自分の生き方や働き方、その生活のすべてが誰かのお役に立っている状態のことです。それは無理をしているのではなく、自分自身が生きていること、働けることに仕合せを実感している状態です。

京セラの稲盛和夫さんがこういう言葉を遺しています。自分というものを修養していくのに如何に矛盾を包有しつつ前進していくべきかを述べています。とても共感する内容なので紹介します。

『強い思い、情熱は成功をもたらします。しかし、それが私利私欲から生じたものであれば、成功は長続きしないでしょう。

人間にとって何が正しいかということに対して鈍感になり、自分だけが良ければよいという方向へ突き進み始めるようになると、はじめは成功をもたらしてくれたその情熱が、やがては失敗の原因にもなるのです。

理想としては、「私利私欲を捨て、世のため人のために」という形の完全に利他的で純粋な願望を持つことが一番良いことです。

ところが、人間にとって、生きるための私利私欲は自己保存のために不可欠なものなのですから、それを完全に捨て去ることはまず不可能です。

しかし、一方でその利己的な欲望の肥大化を抑制するために、努力することが必要となってくるのです。

‘’せめて、働く目的を「自分のため」から「集団のため」へと変えるべきです。‘’利己から利他へと目的を移すことにより、願望の純粋さが増すことでしょう。』

働き方の目的を、自分のためから全体のためにと転換しきるかどうかが利己から利他へと転じるコツなのでしょう。その全体をどこまで拡げられるかが視野の広さや視野の深さですから怠らないで精進していくことだと思います。それが点を線にして面にするという生き方につながっていきます、つまり「全体の中で活きる」(=ハタラキ)ということです。

頭で考えるようなことでもありませんから、もっと夢を大きくして「偉大」な世界に身を置けるように周囲の人たちの志を応援していきたいと思います。