道徳経済

以前、インドに保育園や幼稚園、学校を視察した際に興味深い話がありました。

インドでも今では経済を優先するための学校と教育がほとんどになり、保護者も経済的に有利になるようなところを選んで子どもを入学させているということがありました。学校というところは、勉強を通して結局何をしたいのかということを考えさせられました。

そもそも何をもって正しいというかというのは、その人の価値観によるものです。それが大きくなれば市場の価値観になり、国家の価値観になり、世界の価値観になります。

ある一定の価値観の中で世界はできあがっていますから、その中で誰かが正しいと思うことを信じ込まされその中で生きていくことが当たり前になっていくのです。今ある環境を信じ込まされ教え込まれれば、人間の世界とはそういうものだというようになればそれを払しょくすることはなかなか難しいものです。

以前、海外に留学した時に如何に日本という国は世間という評価を基準に行動しているのかというのを自覚したときがあります。ヨーロッパや他の国では個人個人が自己管理の中で周囲と合わせていくのに対して、日本は世間という暗黙のルールの中に自分を合わせているという感覚を持ったものです。

自分の住んでいるところの文化を確認することは、如何に自分がその中にいるということを自覚するのに似ています。自分を持つというのは、混ざっていて混ざらない、矛盾していても矛盾しないというようなオリジナリティーを発揮していく受容力と信念が必要なのでしょう。

学校も何を目的にしているのかをはっきり持っているところは、世間と同じ教育システムを導入していても、そのプロセスはまったく異なるように思います。目的意識というものは、なんのために行うということですがそれを何よりも強く持てるかどうかが本質的な教育につながっているのでしょう。

世界は今はすべて経済を優先して物事を進めています。そしてその経済は何のためかというのは議論されることもいよいよなくなってきました。渋沢栄一は本来の経済とは民が仕合せになることで、働くことで歓びに変わっているものを定義していました。このような話があります。

「私が若いころ故郷に阿賀野九十郎という七十いくつになる老人がいた。朝早くから夜遅くまで商売一途に精を出していた。あるとき孫や曾孫たちが集まり、おじいさんもうそんなにして働かなくてもうちには金も田地もたくさんできたじゃないか。伊香保かどっかへ湯治に行ったらどうですかと勧めた。九十郎老人曰く「俺の働くのは俺の道楽で、俺に働くなというのは道楽をやめろというようなものだ。まったくもって親不孝な奴らだ。金なんて俺の道楽の粕(かす)なんだ。そんなものはどうだっていいじゃないか」と。」

「たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる。」

世の中のために必要だと思うこと、この事業は社會のためにやらねばならぬと思うことに経済を働かせてきました。論語と算盤というのは有名ですが、そもそもこれは順番のことを述べているように私には思えます。

これは何が何でも道徳のためにやらねばらなぬ経済であるという意味です。だからこそ、社會を善くする人材が経済を優先する人材であるならば、本来の学校とは何を教え導くところであるかということなのです。

渋沢栄一は、信用のことを何よりも重んじました。

「事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。信用は実に資本であって商売繁盛の根底である。」

信用できる人材というのは、地味に地道に自分の決めたことをコツコツと忍耐強く陰ながら積み上げていくものです。見ている前だけや評価が入るところだけで見せかけでやるようなものではなく、その人の努力精進によるものです。

本来何のために教え導き、なんのために実践するのか、今一度原点回帰していく必要を感じます。子ども第一主義の本質もまた改め直していきたいと思います。