桜の初心

桜を待っている心は、春を待つ心です。春を待つ心は、長く厳しい冬を過ごしている心でもあります。昨年も色々と苦労がありました、それは人間関係の苦労にはじまり自らの覚悟を試されるものばかりでした。なぜこんなことになるのかと、どうして理解し合えないのかと何を間違ったのかと自らを内省し素直になって何度も何度も確認しては過ぎてしまった過去には反省し次からは改善しようと取り組む日々でした。

眠れない日、食べられない日、頭痛の日、起き上がれない日などもあり、今思えばこんなに明るい性格なのによくもまあこれだけ落ちこめるものだと感心しました。人は一人で生きているのではなく、多くの人たちの人生と重なりながら生きていますから色々なご縁があればあるほどに色々なご縁にまつわる業のようなものにも触れていきます。

そっと距離を置くこともできれば、知らず知らずに巻き込まれていることもあります。周囲の人たちの声に深く耳を傾け、自らの内省を怠らず謙虚に素直に自らを磨き続けることで冬の厳しさの中にある有難いぬくもりやいのちがそれぞれに輝き結ばれていることの清々しさなども感じられるようになるものです。

そうしているうちに、気が付くと春が訪れます。この春というのは、待っている心です。何を待っていたのか、それは素直でいたい、謙虚でいたいとそして自らの初心を守り続けられるような強さとやさしさを与えてほしいと祈ってきた心です。桜を見るとき、なぜかその人としての生き方のようなものを重ね合わせてしまいます。それは冬を乗り越え春を待っている心を感じるからです。

松下幸之助さんにこのような言葉があります。

「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つ事は僥倖を待つに等しい。静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力を蓄えている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう」

春を待つ心とは一瞬の休みもなく力を蓄えているということ、今を生き切る日々を生きているということでしょう。常に今を真摯に生きているからこそのこの美しい桜が咲く。その桜を見ては、私たちは大切な生き方を思い出すのです。それくらいこの世の中にいて、日々を一瞬を生き切ることは難しいのです。後悔したり、心配したり不安でいる、そういうことよりも今を生き切ろと、そういうように私は感じます。

また、親鸞さんは「明日ありと思う心の徒桜、夜半の嵐の吹かぬものかは」とも詠み、良寛さんは「散る桜 残る桜も 散る桜」とも詠みました。

一瞬一瞬を生き切るからこそ、桜はその一瞬の美しさのままに散り切るのです。この世に未練を残さず、真摯に今を生き、覚悟をもった清々しい生き方から学び続けていきたいと思います。