自然の美学

昨日は、郷里の鳥羽池でお花見をする機会がありました。清々しい春の日差しに透き通った清々しい桜の花びらにうっとりします。床が桜の花びらでびっしりになり、時折、吹いてくる涼しい風に吹かれて舞い上がります。この季節はあらゆる生き物たちが成長していきますが、その旬を象徴するような桜の散りざまに美しさを感じるのかもしれません。

散り際というのは、美学でも語られます。特にサムライの武士道精神のようにも語られます。死にざまが潔いかどうか、散り際がどうかなどを気にするというのはそこに覚悟があるからかもしれません。

武家はみっともない死にざまを晒すことがないようにと、むかしは懐刀を常に持っていたともいわれます。死に際して潔白であることを証明することに意味をもっていたともいわれます。新渡戸稲造の武士道には、なぜ腹を切るのかというのに「特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信念に基づくのである。」と書かれます。この場所には、霊魂と愛情があったと、その真心は変わりませんという潔さですがこれが忠義の原型にもなっています。

今では信じられない話ですが、潔白の象徴が切腹でもあったということです。そこに散り際の美を感じたのかもしれません。桜もまたその散り際をこの潔白と合わせて美学にしたのかもしれません。

しかし本来の桜の散り際を見ていたら、綺麗に美しくこの世を去りたいというものではなく予祝といって先に信じた未来が訪れているという祝福の方が私には色濃く映ります。

桜は祝福の象徴であり、田んぼ神様が先に今年も祝福が先にきておめでとうございますとみんなで喜び合い、収穫の美しさ、その仕合せの口火をきるような明るく美しい気持ちになる存在に感じています。

どんな暗く寒い世のなかでも、春は必ず訪れるという信じさせる存在でもあり、同時に純粋無垢な瑞々しい真心で真摯に咲かせていこうとする子どものような明るい存在です。

同じ花であっても、人はその時々の心情によって解釈は異なります。しかし桜そのものがどう感じているのか、そんなに切腹とか散り際とか気にしているとは思えず、スギ花粉やヒノキ花粉を飛ばしているのとそんなに違いを感じません。ただし、普遍的なものはそこには大切ないのちがあり、巡りがあり、私たちは自然の循環と一つになって仕合せを深く味わっているということでもあります。

この季節はこの季節のいのちの素晴らしさがある、それを喜び合うことで地上の楽園、人生の妙味を味わっていきたいと思います。