求法の旅

今回の中国での旅は、色々な収穫がありました。

久しく体験していなかった様々なトラブルにも出逢い、友人との思い出も共有でき、変化を味わうこともできました。また同時に、慈覚大師円仁との出会いも今の自分を励ますことにもなり有難い機縁になりました。

思い出というものは、順風満帆であるときよりもむしろ艱難辛苦の時の方がいつまでも忘れないものです。しかし異国で八方塞がりを体験することは、本当に色々なことが試され、精神的に強くなっていたつもりでもまだまだ体験していないことがあることを実感するのです。

それに難が有ると書いて「有難い」ですが、その難こそが自分の信念を鍛え、自分の精神力を磨き、自分の運気を高めることを思えば、人は誰でも大変な時にもっとも学び生長していくのだと実感します。

帰国して、これから円仁の日記、「入唐求法巡礼行記」を拝読していく予定にしていますが思い通りにいかない中でも自ら求めて倦まず弛まずに前進し続ける姿にすでに大きな感化を受けています。

思い通りにいかない中に思いがけないこともある、そして思いがけないことがあるとき、そこに法が存在していることに気づくように思います。信じるということは、五体投地のように身を投げ出してでも真理を求めたいと願う心にあるのかもしれません。

それは自分のいのちよりも大切なものがあるときや、大義を優先したいと願うときにこそ、顕現してくるものかもしれません。

まだまだ自分には時間やスピードについての刷り込みもたくさんあるようですし、自己中心的な刷り込みも便利な生活の中で刷り込まれてきています。一生に一度の人生、それを忘れてしまえば目先の損得に自分を埋没させてしまうかもしれません。

常に初志が何か、何のために生まれて、どう死に逝くのか、常に一貫して忘れないままに旅を味わいたいと思います。敢えてゆったりと悠久の流れに身を任せつつ遅々と歩むことを恐れずに前進していきたいと思います。