求法の旅4

慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」を読み終えました。

全4巻が織り成す様々な物語を読み進めていると、改めてその旅路の凄まじさが伝わってきます。特に、武宗の行った仏教弾圧は厳しいもので廃仏をはじめ僧侶たちが突如として様々な迫害を受けました。

それを逃れつつ、多くの方々に援けられ見守られ仏法を学びそれを日本へ持ち帰るといった偉業を為しているのです。

後半の部分には、行間に苦しかったことが書かれています。あまり日記全般の中には、そういう感情が入っている部分は少ないのですがこの後半の旅が如何に厳しかったかを物語ります。

例えば、(五月二十四日。朝早く出発した。夜十二時前後、淮水の注ぐ海に着いて停泊した。逆風と猛り立つ高波のため淮河の中に入っていくことができない。持っていた食糧が全くなくなってしまって窮迫、非常な不安と疲労におののいた。)

(七月二十日。出発して山や野を行く。草木は高く深く繁り人にもめったに逢わない。一日中、山にのぼったかと思うと今度は谷にくだって入って行き、泥水の道を踏み歩いてつらく苦しいことはこれ以上ないと思うほどである。)

(八月二十四日。文登県に着く。円仁たちは山を越え野を渡って衣服はぼろぼろに破れ使い果たした。県の役所に行き県令に会い、「当県の東端にある勾当新羅所に行って、食べ物を求め乞うてただ命を延べつなぎ、その間に自ら舟を求めて日本国に帰らしてほしい」と請願した。)

他にも、次々に厳しい勅が降りて仏教弾圧の最中を駆け抜けていくところや食事がろくにできない状態のまま休憩もさせてもらえずに厳しい扱いをうける所なども多くある。

また同時にその中で仏弟子に出逢い、丁重に大切にしてくださった人たちもあり、一期一会に感動する場面もあります。この日記には、その円仁の生き方そのものが詰まっており、これが与えた影響は本当に大きいのではないかと思うのです。

ここから空也、法然、親鸞が顕われてくるのです。特に法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったと言います。これらの実践の様子は、常に仏の教えの鑑となって法を求めることの価値を後世の人達へ与え続けています。

人の業績というものは、何をやったかというものもあります。しかしそのプロセスとしてどうあったかということはあまり論じられることはありません。師の果たせなかった夢を受け継ぎ、謙虚にその真理の実現のために尽くした至誠の人、この慈覚大師円仁にどうしても深い魅力を覚えてなりません。

これはまるで異種ですが私には、源義経、高杉晋作、直江兼続、松尾芭蕉など義に共通するところが見え隠れするのです。

人はどのようなものを信じて生きたかということは、最期には遺るように思います。何を信じてその人が生きたかというものは結果を見なくても、そこに何か映し出されてくるものがあるからです。

人が生きるということは何に生きるかということです、そして人が死ぬのは何に死ぬかということです。

法を求めて旅をして、その法の求める中に掛け替えのない間人の絆があったということ。日本人らしく生き切った円仁という一個の人に心から敬愛と尊敬の念が込み上げてきます。

今回いただいた機縁と「入唐求法巡礼行記」との出会いは、私にとっての勇気になりました。

有難うございます。