求法の旅2

慈覚大師円仁の日記を読み進めているとその旅路の難しく厳しかったことを実感します。酷い蚊やアブに悩まされたり、雷雨をはじめ天候に悉く恵まれなかったり、病を得たり、役所の人達の理解が得られなかったり、数えきれないほどの困難と遭遇しています。

その間に記された行間に、その出来事をあるがままに記していることに返って思うことがあるのです。時折、そのシンプルな文章の中に感激したことを坦々と書かれているのですがその文章を読んでいると求法を実践している円仁の人柄が目に浮かびます。

当初は、最澄の意志を継いで天台山を目指していましたがそうではないと言わんばかりに壁が立ちふさがり、諦めかけたころに五台山に換えるという決心をしました。そこからは仏縁に導かれ、様々な人々との邂逅を得て旅が進んでいくのです。

今、ちょうど読み進めて五台山に辿りついて霊仙三蔵との邂逅があっているところです。

この霊仙三蔵は、同じく日本人で最澄・空海とともに唐に渡った僧の一人です。知名度で言えば、最澄と空海が有名ですがその陰にはこの霊仙がいるのです。この三人は共に入唐しましたが、最澄はわずか八ヶ月、空海は三年で帰国しました。霊仙はその後二十三年の長きにわたり在唐して最期まで帰国はできませんでした。

当時の中国の憲宗皇帝の信が厚く、僧としての最高位を示す称号と位を与え日本人でただ一人の三蔵法師、霊仙三蔵となりました。

円仁はそれを五台山で聴き、そのまま長安への旅路の最中で廃寺となっていた七仏教誡院に立ち寄り偶然にもそこに残された言葉に霊仙からのインスピレーションを受け取ります。

それは霊仙三蔵から託されて日本と中国の間を五回も渡航し行き来した僧、貞素の詩を見つけることで得られます。それを書き写して日記に持ち帰るのです。結局は、この円仁はかつて唐に渡った三人の意志を集大成して吸収していくのです。

また余談になりますが空海の弟子の山城国小栗栖の法琳寺の僧、常暁が後日、偶然にもこの霊仙が遺志として託した太元帥法と法具を日本に持ち帰ることになるのです。それが明治になるまで、国難の時に行う秘法として元寇のときや日露戦争などでも用いられていくのです。

志は決して一人では為らないことをこれらの因縁から実感します。一人では成し遂げられない夢を、同じ志を持つ者たちが観えない糸で結ばれ合い、力を合わせて偉業を実現していくという事実があります。

そこには時空を超えて場所を越えて、必ずインスピレーションでつながっていくということに大義の持つ美しさも実感します。これは武士であろうが、僧であろうが、または商人であろうが、志は必ず人々の間に生き続けていくということを証明しているのです。

人は、その思いや願いこそが何よりも尊く、その意志により出逢いやご縁が生まれ旅が霊妙に寛美に彩られていくのです。旅はその志があってのものであり、それは須らく自らの脚で初志貫徹に歩む時にこそ出逢うように思います。

その後も円仁は、旅の途中で様々な仏縁に導かれていきます。文殊菩薩の智慧を学び、その智慧を発見していく日記には、どのような旅の辿り方をしたのかを垣間見ることができます。縁を辿っていくのは、自らの人生を旅していくことと同じです。

かつて、日本人の先祖にこのような人がいたことをこの歳になってはじめて知ったのもまた尊い仏縁の御蔭であるように思います。毎年、この夏のお盆の最中には仏縁に恵まれ学びを深めることができています。

引き続き、求法の旅路を香りを味わってみたいと思います。

有難うございます。