本元和合

大学に「物に本末あり、事に終始あり」とあります。

私の考えですがこの本末とは、本末転倒などで使われる時の本末のことです。物事の元にある根本を忘れて、枝葉末節のつまらないことに囚われる時などに用いられます。そして終始というのは、終始一貫などで使われる終始のことで、始めも終わりも終始筋道が一本通って変わらずにいることを言います。

そして物事とは意味そのもののことであると私は定義しています。

先日、有る事に気づいたのですが私たちはその本があるということを忘れてしまうものです。外側の現象を見てはそこでの比較対象や、勉強して得た知識を使って安易に右とか左とか、陰とか陽とかを分けてしまうものです。

言い換えれば自分を中心にして、左右に分別する分別智のことをいいます。しかし、ここには落とし穴があり中心にしたもののことは入っていないことがほとんどです。つまりは、物事を△にして観えていないのです。例えば、右・左・自分、陰・陽・自分というように三方の角に置いてその元が、その本がどうなっているのかを気づかないのです。

分別智というものばかりに囚われていたら、その本がどこにあるのかが次第に分からなくなります。初心を忘れるのも、その元を見失うのもこの分別智ばかりを優先して勉強することで悟れると勘違いするからです。頭でっかちになるというのは、分別智の刷り込みに呑み込まれてしまうことをいいます。

私たちは幼少の頃から、教育によって様々に分別された知識を暗記させられ詰め込まれます。それを勉強と言い、その分別智を学んではそれを頼りに様々なことを理解します。しかし、それを体験しないで理解するというものではその本がどこにあるのかが分かりません。言い換えれば、それを実践する人間は誰かということです。

実践する人間が生み出したのが末であるならば、末ばかりを探してはその本が分からないというのは本末が転倒しているとも言えるのです。また終始というものもそうですが、どこから湧き出たものかを忘れて、向こうから来たように思って順序を忘れてしまえば道に迷ってしまいます。

順序とは、筋道のことで私達であれば日本人としての民族性、その血縁の由緒に元ずく流れを一貫しているかということです。最近では、日本人が西洋化し、西洋の人が日本の文化を学んだものをわざわざそれを日本人が教科書にして学ぶような可笑しなことが起きています。

本来は自分たちから湧き出たものであるならば西洋によって分別されたものをいちいちやらなくても、自学自悟に自明していけばいいのです。本来、自分に由緒があるものを西洋の解釈したものから勉強するという時点でその順序が間違っているのです。世間では、海外のものをさも素晴らしいと取りいれますが、自分の中にあるものを忘れてやっているちは本当のことは掴めないと思います。

そして出来事、つまり「物事」というものは、全てにあますところのない真実の意味が存在していてその意味を真剣に深めていくことで自然に為るように思います。その意味づけを根本のところでどのように行っていくのかで、本末と終始は素のままになり常に道に中るように思います。

道を学ぶということは、この「本」ということにどれだけ当たり続けるかということであると大学では言っているかのようです。本当のことは全てが混ざり合ったところにあるものです。それは「分別しない」ところにあると言ってもいいと私は思います。

これを和合とも言いますが、それは今を真摯に実践していきその意味の由緒を顕現させていくことのように思います。

宝さがしのような日々、この地球の楽園にいることに感謝し、物事の本末と終始を大切にしていきたいと思います。分別する魔の入る余地がないほどに、その物事と一体になって取り組んでいこうと思います。