本物の個性

よく勘違いされるものに個性と習慣というものがあります。

自分はこういう人間だからと最初から決めつけ向いているとか向いていないとか自分で判断してしまうことを個性だという人もいます。しかしよく考えてみると分かりますが、それらの個性というものは産まれてから何らかの努力した習慣によって手に入れたものが多いのです。

例えば、自分は営業向きではないとか、自分は学者向きとか、最初から先入観を持ってしまい挑戦しようとしない人がいるとします。私も昔は、自分では営業は向いていないとか経理はできないとか、経営者タイプではないとか自分なりに思い込んでいたものです。

しかしそれはそれまでの自分の習慣がそれまでの自分の個性のようなものを固定していただけで新しい行動と習慣がつけばそれまでの自分とはまったく異なる新しい自分を発見することができたのです。

人間は結局は自分自身の先入観に打ち克てるかどうかということで自分を創りあげていくのかもしれません。自分の限界というものを決めているのも自分自身ということなのでしょう。

論語に、「子曰く、性は相近きなり、習いは相遠きなり」という言葉があります。

つまりは、人は生まれたときはほとんど変わらないけれど、その後の習慣でまったく違う人物の差にになってしまうという意味で用いられます。ほとんど人間には実は違いがなく、どのような教育を受けてきたか、そしてどのような習慣を身に着けてきたかでその人生はまったく別物になってしまうということでしょう。

よくこれを個性だと決めつけるのは、学校で教え込まれた間違った個性です。学校というものは、その人がよく言うことを聞き、学校の思い描く社会に適応する人物を育てようとします。しかし実際の社会に出て観ればそれでは実学ではなく実用にならないのだから、当然、社会に出たらその社会での習慣が必要になります。

如何に学校で身に着けた習慣が十何年あったにせよ、それを個性だと決めつけずに新しい自分、その社会で生き残るために新しい習慣を身に着けていく必要があるのです。

学校から社会人になるときに、何を捨てさせるのかといえばそれまでの習慣のことを言うのです。それまでも習慣を捨てるには、今までの習慣を凌駕するようなまったく異なる中らな習慣を育てていく必要があります。

私が現在行っている朝練も同じく、これは今までの生き方、それまで自分が判断してきた基準を超える経験、つまりはその心身の習慣を身に着けるために実施しているのです。何度も何度も新たな習慣を身に着けるには場数が必用で、その期間は苦労するものですが新たな習慣が立てば新しい個性もまた身に着きます。

これらの基になるこの「性」というものは、天性のことです。天性とは人間そのものは等しく天地自然の顕現としての存在という意味でしょう、つまりは元の人間は神人合一、天人合一という意味です。習いとは、その後の学問のことで実学の人か妄学の人かということです。

意識改革というものは、これらの習慣にメスを入れることをいいます。自分では気づいていもない習慣をそのままにしておけば一生涯それを個性だと勘違いしてそのままになってしまうのも、その人のご縁や運によるものと思います。誰にも指摘されないまま自分の個性だと勘違いして努力を見誤れば裸の王様のようになってしまうかもしれません。これは本当に恐ろしいことです。

だからこそ素直に生きていくということは、自分の気づいてもいないような思考の癖や習慣を指摘してもらう自分でいることのように思います。そのために正直に伝えてくださる指導者が身近にいたり、同志、師友の存在は本当に有難いことのように思います。そしてそれもまた自分の決めた生き方、真摯に成長を選んでいるか、真剣に伸びようとしているか、求める自分があってこそのものでしょう。

心を開き新しい自分に出会うことで個性はより本物の個性になっていきます。

悪しき習慣を転じて善き習慣とするように、新たな習慣を身に着けるために温故知新、御指導いただくままに今年は様々な習慣を具体的に変えていきます。