思いやる心

毎月、カグヤではその分野の専門の講師や私たちのビジョンに影響を与えて問題意識と危機感を醸成し、刷り込みを見直す本質的な研修を行っている。

今回は、見守るほいくプラスを協同で開発した野田先生に来ていただき現場に基づき内容の濃いディスカッションをカグヤクルー全員で行うことができた。

私たちが提供している、見守るほいくプラスは軽度発達障がいという世間では「気になる子」といわれる集団にうまくとけ込めない理由を抱える子ども達に対して周囲が「気づき」や「見通し」「見立て」を行っていくキッカケになるために開発したものだ。

誰も、言われなければ気にとめないようなところにこそ本当の問題の根源がある。

私たちはこの幼児業界でもっとも気づきにくく、そして指摘されていない隠れた部分に光を当てることでもっとも人間としてあるべきようの本質を世の中へ訴えようとしている。

そういう場所は常に、子ども達の現場に陰を落としていることを知っているからだ。

オトナ目線で常にモノゴトを考え続けた結果、子ども達の気持ちや心のヒダが理解できなくなり、またカタチから教育者を覚えて刷り込みの渦中にいればどうしても「正しく観る」力は衰えてくる。

人間は、本当に知識だけを入れて実践を省みなければすぐに自分中心になってしまい謙虚さを失ってしまう生きものだなと改めて思う。

今回、野田先生との話の中で印象に残ることがあった。

国連が出している、「世界子どもの権利条例」を日本が守っていない箇所がたくさんあり、すでに国連から二度も改善勧告をうけているそうだ。

その内容は、簡単に言えば障害者やそういう個性を持つ気になる子に対してフォローできる体制を教育機関として用意して保障することになっているのに日本は守っていないということだ。

確かに今の幼児教育の現場を観ても、一斉画一での弊害と専門家不足や時間の余裕のなさ、加配人数の不足などでとてもそういう気になる子を支える力がない。

そしてもしそういう気になる子がいても、行政も対応が後手にまわり園任せになっている。保育園幼稚園小学校との連携もうまくいっていないところがほとんどで、その責任を押し付けあっているだけ。

そうやって議論は進まないまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
その間に、排除論が正当化されたり、必要悪だの議論はとんでもない方向へ向かっていく。

そんな他人任せではこの業界は、本当にいつになったら良くなるのだろうかと思って立ち上がって開発したのがこの見守るほいくプラスなのだ。

日本では現状、専門家などを配置する予算もなければその経験を持っている人もとても少ない。

でもその人たち任せで自分が何もしないなどは正しいはずがない。

自分にだってできることがあるし、大事なのはそういう子に対する「思いやり」があるかどうかが先生の資質にとって重要だと私は思える。

保育現場を廻っていて分かるのだが、今の保育現場ではその「気になる子」すら見つける力がない。

たとえば、「噛み付き」や「引っ掻き」などする子どもがよく観察すると「社会性」や「言語」が発達に着いていけずにそのストレスからどうしても耐えられずプツンと暴れてしまうこともある。

ただ暴力的だとか、あそこは両親が野蛮だとかそういうオトナがただ見たくれで知っている知識だけで解決しようとするのに何が専門性があると言えるのだろうか?

子どもが何かをするのは、その時は意味不明でも必ずその理由の根源がどこかにある。それを観つけるのが本当の専門性だ。

そして園で観つかる問題のそのほとんどが、自分の発達や個性を受容してもらえない社会側(オトナ)にあると気づくことがまず子ども目線での入り口ではないかと私は思っている。

この気になる子については、このブログでも何度も書いているがまだまだ世の中に提案して易えていくために賛同を集めていこうと思う。

最後に

世界では、気になる子や障害者を守るために周囲が努力する。
日本では、気になる子や障害者に努力させて自分達は見てみぬ振りをする。

障害者にだけ努力させて自分達はそのままでいいなんて道理がこの豊かな和を尊ぶ日本国には絶対にあってはいけないことだと私は改めて義憤しこの今も信念を強くする。

子ども達には将来、この国が世界でももっとも模範を示せる道理立つ国にしていくためにも世界で通用する立派な「思いやる心」のモデルを身に着けたオトナに成ってほしいと願う。

まだまだこれからも知られていない子どもの現状をカグヤの社業(ミッション)を通して一生遣り抜いていこうと誓う。

  1. コメント

    どこの園に伺っても気になる子が多いと言われるのが現状ですが、何をもって気になる子と決めているのかについては、大人の都合ではないかと感じることが多くあります。特に子どもの表面的な部分だけを見て判断し決め付けてしまうということもあるのだと思います。しかし大事なのは表面的な部分だけではなくその子自身の内面がどの様な状態にあるかではと思います。大人都合の偏った見方で子どもたちが犠牲になることはあってはならないことだと思います。
    逆に言えば私達の関わり方次第で子どもたちは、犠牲になるのではなく、更なる可能性を広げるかもしれないということだと思います。子どもたちの可能性を潰さない様に思いやる心を大事にしたいと思います。

  2. コメント

    『誰も、言われなければ気にとめないようなところにこそ本当の問題の根源がある。』
    この言葉からも、自分で気づかない内に見逃してしまっていることが実は大きな問題を
    孕んでいたいたということに、痛感致します。「その時は問題と思っていなかった…」など
    自分自身の問題意識が低ければ、そこには遅かれ早かれ問題として浮き上がってしまうことが
    あると言う事を考えてみても、自分が向き合う以上、問題意識を持って臨むことが大事である
    ことを思います。「誰かがきっとやってくれるだろう」とか「○○の時期にやろう」という
    他に依存する考えなどを持ち合わせてしまうと、見逃したこと以上ものになるかと思うと、
    自分自身の臨む上での姿勢を含めて、問題意識と危機感を高めていかなくてはいけないのでは
    ということを思います。
    気になる子のことを考えても、自分の思い込みが強く、相手のためにとってという考えが
    なければ、自分にとって都合の良いものばかりを相手に押しつける様な形となってしまいます。
    もっと子どもにとっていいという考え方が出来る様に、深め続けていくことが出来ればと
    思います。

  3. コメント

    人は皆一人一人違ってよいはずなのに、人と人を比べ、評価し、偏見の眼差しや決めつけで相手を見ているこの社会の現状がどれほど根深いのかということについては調査をしたわけではないので分かりませんが、しかし、それ以前にそのことに義憤を持ち、変えなければと思っている自分自身の眼差しや心の中にも、そうしている瞬間があるのではないかと、自身を振り返ると恐怖を感じます。奇麗事は口でも態度でも姿勢でも表現できますが、性根は隠す事は出来ない。根っこから本当にそう思わないと人間は器用ながらも自然な生き物だと思いますので、そんな不自然の状態では真心は生まれないのだと危機感を感じます。知識や表面的なスキルよりもその姿勢、在り方、生き方自体をよくよく省みて根っこを伸ばしていきたいと思います。

  4. コメント

    思いやる心という題のブログですが、まさに自分の課題だと思いました。
    自分の中では思いやりを持って接しているとは思っていますが、相手からしたら思いやりの行動になっていないことがあります。
    自分の価値観で思いやりのある行動をしてもただの押し付けになってしまい、相手に合わせた価値観で行動しないといけないのだと、感じています。
    この思いやりというのは、この世の中で生きていくうえで必要なことなので、沢山の人に思いやりができるようにしていき、共生していきたいと思います。

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