覚知

人は何かの刷り込みがあるとものの本質を理解することができない。

どの仕事もそうだし、それは現状把握もそうだけれど根本的なところから取り組む人と、途中から誰かに聞いて知った気になるのとでは同じではない。

例えば、保育でもそうだけれど最初の発達を善く理解し、そもそも保育とは何かというところから学ぶ人と、そういうことは考えもせず他人から保育とはこうだと思い込まされている人はそれが正しいことなのだと勘違いするものです。

これは他のことでも全部言えます、そもそも何かを自分で探求して辿り着いた人は刷り込みの影響はあまり受けません。すべての意味があるものがそれが何なのかを正しく最初から理解できる人は常に本質的であるともいえます。

今の時代は、最初から考えさせるというよりも途中から教え込むという過去の発見した事実を暗記させる方を優先するからいよいよ刷り込みや思い込みを持ってしまう人が増えてしまうのです。そういう本質も時代とともに変わっていくのです、普遍的なものがあろうが自分が普遍的ではないのだから正しくそれは再考し見直す必要があるのです。

先日、弊社のランチを提供してくださっているミルクランドの経営者と面談する中で真実の卵の話をしていて刷り込みの話で盛り上がった。「卵焼きや目玉焼きでの卵しか知らない人にいくらその真実の卵の話をしても理解できないのではない。刷り込みがある人にいくら話だけしても伝わらない。最初から鶏を育てて卵をかえしまた育てまた次代へ譲るすべてを体験したものでなければ、その卵そのものが刷り込まれていない状態として「観えない」のであろう」と。

1から10までそしてまた1から10へと一巡するまでのすべてで丸ごと一つと見た時に、それを通しで体験して理解し、そもそも本当は何かを伝えるということは大変な時間と労力が必要になるのです。それをかけなければ刷り込まれないようにはならないともいうのです。

しかしそれがなされないのは今のような速度を優先して競い合うような時代、時間がないと焦りスローにじっくりなどとやっていたら間に合わないと思うのでしょう。

実際は、それを通しで体験しないことで永遠に本質に辿りつかず余計な手間も無駄も生まれてしまうことで大きな不合理が生まれ続けて混乱してしまうのです。その混乱から余計に止めることのできない人道の破滅に繋がっているのが今の状態であろうとも感じます。

刷り込みを取るには、常に一番最初から最後まで円環している原理を理解することが必要です。それは暗記ではなく、それはそもそも何かということを丸ごと全体を通しで見極め廻りを覚ることが必要なのです。

常に1からやり直し最後まで通して行い巡りを体験することが刷り込みを取り除きます。
これを私は覚知と定義します。

これをできるようにするのが私の仕事なのでしょう。今までの学び方の刷り込みに周囲がいつまでも流されなくなるよう、さらなる覚知の考案を探究していこうと思います。