維新

今までの人生を振り返り、いつも日々を維新していくということは難しい。

自分というものに対してどうしてもこれでいいと妥協をしてしまい、理想と建前をそこで使い分ければそこに本来の自分としてやり直す機会を次第に失っていくものである。

人の細胞も毎日、生き死にしている。

日々は、もしも今日が最期の日ならと思えばそういう生き方をしようと思い生き直すのだろうけれど前の日を引きずり引きずりとしているうちに曖昧な日々を過ごしていくことに慣れてしまうものなのであろうとも思う。

今までの自分を、これではいけないと維新していくことができればいつだって学びは新鮮で自分の心も素直なままに命のあるべきままに活かしていくことができるのであろうとも思う。

古典の『淮南子』に、「蘧伯玉、行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す」という文章がある。

そしてこの文章を安岡正篤先生がこう意訳している。(安岡正篤一日一言より)

「これは人間に通じて来ないとわからない。年をとるにつれて身に泌(し)む言葉だ。

人間は五十歳にもなれば或(あ)る程度人生の結論に達する。と同時に心のどこかに自らを恕(ゆる)す、肯定しようとする意志が働く。

その時に「五十にして四十九年の非を知る」、今までの自己を一度否定することは、これは非常に難しい。

だが過去の非を知り、自分が自分に結論を下すことは、新たにやり直すことであって五十になってやり直し、六十になればなったでまた変化する。

いくつになっても溌剌(はつらつ)として維新してゆくことだ。」

とある。

人間は何歳になったとしても、今までの自分に満足するのではなく常に新しくしていくということの大切さについて語られている。

今まで生きてきたことがすべてである人生が今にある、しかしまだまだせっかく生きているのだから生きているうちに生き直しをしていく方が、何度も何度も人生の妙味を楽しめるのである。

これでいいと妥協してしまったり、これが自分なのだと諦めてしまって維新していくことを忘れたならばそれまでに定着した過去の柵や刷り込みで残りの人生も生きてしまうことになる。

一度きりの人生なのだから、今のままが全てならそれではあまりにも勿体ない。

人生の残り時間にどのように生きたいのかは、自分自身の日々を新たに自分の今の境地を切り開いていくかということになる。

今までの未熟であった自分に気づき、それを一度すべて受け容れてそれまでの不肖を恥じて精進していこうと心新たにゼロから学び直すのである。

節目節目に学び直すというのは、新たな境地を開拓することでもある。

これまでに学んだことは実は間違いだったのだと受け容れる勇気と具体的な新たな挑戦こそが新しい境地へ入る道の中であろうとも思います。

人は何歳になったって変われるものだし、人はいつどの瞬間にでも人生はやり直せるものです。今までの人生にしがみ付き、後悔ばかりの過去に囚われるのではなく、昨日までの間違いに気づき今、この瞬間から新しいことをはじめていくことで変わっていくのが真理だと思います。

日々を維新し、世界を維新し、人生を維新し、子ども達のために維新していくことをいつも生業にしていようと思います。