真心の鏡

子どもたちを見ているととても心が安心することがある。
そして自分に素直に生きている人をみるとやっぱり安心することができる。

生きるというのは、そもそも難しいことだし、いろいろなことが起こることもでもある。その中でも真っ直ぐにその出来事に正対し、気付き学び成長する人とそうではない人がいるというのは教育に携わる人のテーマでもあると思う。

真心を籠めて生きていくということ、愛を持って生きるということは、誰が子どもへ教えるのだろうか。

周囲の温かい大人の示す感化により、伝わっていくのだと私は信じてる。

しかし、今は子どもの時より時代や環境によりさまざまな刷り込みにあい偶然そういう感化に恵まれずに擦れてしまうこともある。そうこうしているうちに自らの本心を亡くし、素直になれなくなるようになる人もある。

何を聴いても正しく受け取らず、周囲に対して憎しみを持つようなトラウマや深い影を持つ人も世の中にはたくさんいる。誤解した過去をずっと抱え込んだまま、生きてしまうことがある。その一瞬が永遠になってしまうことがある。

子ども時代の出来事との出会いは、いつも無防備だし、不意をつかれたその衝撃は記憶に刻まれいつもそれを恐れるように許しや癒しとは反対方向へと衝動で向かってしまうのだと思う。

そういう場面やシーンを持っている人を見るととても悲しく、そして切なく感じるのは私だけだろうか。

潜在意識に刻まれ、蓋をしてしまい二度と開けることがないまま、なぜか不自然が身についてしまい、またそのせいで余計にもがき歩む。温かい人との出会い、恩師との出会い、奇跡のメンターとの出会いにより、もう一度自他を心底許せるように感化される一期一会を得てほしいと心から願います。

私が大人が子どもへ与えてしまう「刷り込み」に対して、本質を得ていると思っている内容に下記がある。

『人は童子たる時、全然たる本心なり。やや長ずるに及びて、私心やや生ず。既に成立すれば、すなわち更に世習を夾帯して、而して本心殆ど亡ぶ。故に此の学を為す者は、当に能く斬然として此の世習をさりて、以て本心に復すべし。是を要と為す。(言志四録 佐藤一斉)』

「人は幼いときに、無垢で完全な真心を持っている。やや大きくなると、私心というものが少し芽生えてくる。そののち一人前になると、さらに世俗の習慣が身についてきて、汚れのない真心はほとんど失われてしまう。したがって、聖人の学問をするものは、世俗の習慣をきっぱりと断ち切って、真心に帰るようにしなくてはいけない。これが重要な点である。」

子どもの時の素直な真心は、どんどん大人になっていくと失われていく。

保育園幼稚園であの子どもたちとゆったりとくつろぎ静かに真心で通じあうとき、彼ら彼女たちは私に真心で返してくる。「楽しい、嬉しい、大好き、、、」素直で屈託のない澄んだ瞳。なんて温かでそして優しいのだろうといつも人間の素晴らしさを感じて感動してしまう。子どもの素直さはそれだけで無限の光と輝きがある。

大人が子どもに価値観を押し付けるというのは、子どもの本心を奪うことにもなるのではないかと私は信念を持って思っている。

子どもたちは完全だとなぜ思えない大人がいるのか。

それは、自分の本心を刷り込みにより忘れてしまっているのではないかと私は思う。

もう一度、そういうものを「真心の鏡」として子どもたちを観てみるとどうだろう。

すべてを持って生まれて、そして失っていくとしたら、私たちはとても悲しい機会損失に日々出会っているのではないかと思うと心が痛む。

安心して素直で生きてほしいと念じる、まるで太陽も月も地球もそういう素直さを生きるものへ平等へ恩恵を与えてはいないだろうか。共生や調和というものの本質を鑑みていきたいと思う。

まずは私自身、素直に生きることができるように、思いやりと真心の鏡を自ら日々確かめながら子どもたちを信じていきていく実践を積み上げていきたい。

万物の具徳により、新しいモノサシが世界を変えることを信じて。