慎独

大義を得れば大義を誠に実践していくのは志下一念で生きる者の定めではないかと思う。

古典、大学にこうある。

「所謂其の意を誠にすとは、自らを欺くなきなり。悪臭を悪むが如く、好色を好むが如し。此れを之れ自謙と謂う。故に君子は必ず其の独りを慎むなり」

私の解釈として、自らの内面の心を真心一つにすることとは、自分自身の本当の心に嘘偽りないものにしていくこと。まるで嫌なものは嫌だし、良いものは良いと思うようなもの。そのままの在るがままの自然であるという。だからこそ、君子は絶対に誰が見ていなくても誰がいようがいまいが、君子は自らを独りで身を修め慎むようにすること。

自らの内面に嘯かない生き方をする。

これは、自分に尽くすという天を感じて生きること。天が自分を見ている。だから、天を絶対に裏切らない。天が見ているからこそ、天に対して本気本心だったかを問うということ。

どんなに独りのような気がしても、そこには必ず天が見ていると信じる。

これが忠。

そして自分以外の人を裏切らないためにも、自分が信じ切ることを優先する。言葉に嘘を乗せず、在るがままで正しく接する、これを誠心とし、まごころと思いやりとする。

これを信。

最期に、誰からどう思われようとも、誰にどう批難されても、それが真剣に自らの命を懸けるほどの信条から練り上げられ、至誠の志からの自らの人生観の発動、そういうものに自分がどうしようもなく突き動かされる運命的な魂の衝動、そこにはその忠と信から天と同化し自らの命を任せるほどの透徹心による勇気が現れ行動する。

これが義。

思いやりが広がり、優しさが天と一体になりあるがまま本物になると忠義になる。
その時、維新の志士たちが遺したような下記の言葉が出る。

かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)

世の中の人は何とも言わば言え 我が成すことは我のみぞ知る(坂本竜馬)

世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん(金子重輔)

ああ、いつも天を感じて生きていくことを思うと、如何に君子は独りを慎み天と対話を正しく続けて貫いていくことが求められるのかと真摯に思う。

子どものためといえども、気がつくと周囲の喧騒に揉まれるばかり。もっと心を正しくし学びを深くしていきたい。正しく学ばなければ志と正対ができなくなる。私が尊敬する諸葛亮孔明の言葉がある。学び、実践し、心を正しくして静かに慎む。

そこにはこうある。

「優れた人は静かに身を修め徳を養う 無欲でなければ志は立たず おだやかでなければ道は遠い。学問は静から、才能は学から生まれる 学ぶことで才能は開花する 志がなければ学問の完成はない」(誡子書)諸葛孔明

内省して慮ると、私は少しのことで動揺し、大きなことでも動揺し、ゆらゆらゆらゆらと志の前後で揺れてばかり。学を志してもう十数年、まだまだやることはたくさんある。

もっと独り慎み、静凛として真心と真実と真理の道を歩んでいきたい。

慎独至誠、
  初志貫徹。