我がふり直す

ここ数日、色々と政治関連のニュースがにぎわっている。

国民の声が届いていないと声を荒げているような動きもでているけれど、理念なき国家運営というものはいつの時代も偏ったものになるのであろうと思います。

人数が多い方や、力が強い方、権力がある方の意見ばかりを取り入れて、少数の意見や、力の弱い方、一般的な国民の意見を無視すれば必ず世の中は不平不満に傾倒するのです。

画一的に何かを行おうとすることは、常に何かの力関係が発生していることを感じます。明治以降、私たちが参考にした国家のカタチは王道政治と言えるものだったのでしょうか。

もともと私たち大和の民は倫理道徳に長けていて、和して同ぜずというようにそれぞれに自主自立の精神で思いやり暮らしていたことを物語った歴史が文献にも多分に残っています。

数々の困難を繰り返す中で、最終的には常に和合し、助け合い、認め合い、許しあいながら、それぞれの生活を分け合い活きてきたように思います。そこには神道といった暮らしの智慧も、また武士道といった道の規範からも感じ取ることができます。

それを西洋式の国家運営を優先してから、善か悪かとなり道の概念も廃れていきました。

中庸といった政治の要諦は孔子にあるように仁の心を問われます。
それはテレビで眺めているような今の時代の政治家が行うようなものでは決してありません。

社会全体がどうやったら善くなるかは、単に経済効率だけを捉えてはままならないのです。
会社もそうですが、如何に人々が聖人のように思いやりと真心の社会を築けるか。
そのような見守りが生まれるように政治を取り組んでいく必要があるのだと思います。

それは理念というべきものを明確にし、それを実践することだと思います。

マニフェストそのものに対する姿勢を観ていると、優先しているものが何かはすぐに見え隠れしています。誰かが納得するものを優先するのではなく、そもそもどのような理念で何を行うかを明示し、それを実践しながらでなければ誰も納得していかないのです。

今の時代がどのようであるのかは、歴史から考察できます。
批判することは容易いことですが、自らの実践を鑑みてより一層学んでいきたいと思います。