子どもに譲ること

昨日は九州の農園での草刈りと大豆の種まきなどを行った。

もともと休耕田といって、自然のままに放置していた土地をもう一度復興させようと昨冬から下準備をコツコツと続けてようやく種を蒔くところまで訪れました。

ひとつひとつの作業は、自然を相手にするのだから相当な心技体の疲労が生まれます。
仕事柄、集中力はある方だと思っていても自然の前ではそれも通用しないようです。

一日外で過ごすだけで、日、風、土、水、空気、音、種々のいのちの活動の場に身をおくことで物凄い変化の波にさらされているともいえます。特に、短い時間で何かをやろうとすればその分が身体に圧し掛かり大変な体力を消耗するのです。

自然を活かすという考え方はこちらの都合を優先しないともいえますが、そうはいっても天候をよくみながらコツコツと進めていくことが大切なのでしょう。無理をするということは不自然なことであり、無理がきくというのは正直ではないとも言えるからです。

子どもはみんな正直で、無理をしようとはせず自然なところで素直なままです。
自分のそういう感性もまた経験を繰り返す中で磨かれていることと思います。

なぜ突然、自然農をと友人から尋ねられました。私は子ども第一主義の理念からやっているだけといつも回答しますが、私がとても楽しそうにしているから本業はどうなっているのと心配してくれているようです。

説明が難しいので二宮尊徳の言葉を借りることにします。

「鳥獣にはまちがっても譲の心が生ずることはない。これが人類と畜類の区別なのだ。田畑は一年耕さなければ荒地となるが、荒地は百年たっても自然と田畑になることはない。人道は自然ではなく、作為のものだから、人道は作ることにつとめるのを善とし、作ったものを破るのを悪とするのだ。何ごとも自然にまかせれば、みんなすたれる。これをすたれぬようにつとめるのが人道だ。たとい人と生まれても、譲りの道を知らなかったり、知っていてもつとめなかったりでは、安堵の地を得られないのは鳥獣と同じことだ。だから人たるものは知恵はなくとも、力は弱くとも、今年のものは来年に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道をよく心得て、よく実行すれば、必ず成功すること疑いない。そのうえにまた恩に報いるという心掛けがある。これも心得て、どうしてもつとめねばばらぬ道なのだ。 」

譲るということがどういうことか、子どもに関わる仕事をしている以上、働き方や生き方というものは必ず実践していなければならぬ理念の道だと私は思っているのです。

子どもを育てるということは、大人たちがちゃんと正しき実践を積み譲るということであるのです。それを机上の空論ではなく、自らの背中で示すことが何よりの「譲」であろうかと私は思います。

直接的な子育てと、間接的な子育てというものがあるとして直接的には父母だとしても間接的には偉大な見守りの中で実現しているともいえるはずです。

私は見守るということの真意を実践を通して伝え導く生き方を決めているから当然なのです。
もちろん理屈ではなく、楽しい、好きであるから実感する境地で持続していくのでしょう。

しっかり体験を昇華していきたいと思います。