農の実践

昨日は、京都農園で自然農での田植えをカグヤクルー全員で無事に行うことができた。

大雨の予定が、ちょうど私たちが到着すると天候が変わりポタポタと優しい雨の中で終始作業ができ、当たり前のことだけれど当たり前ではない様々な恵みに深く感謝しながらの一日になりました。

ここは1反以上ある田んぼで、元々は台風で破壊された土地をもう一度少しずつ手入れをして何とか再生したところです。同志が子ども達のためにと、精魂込めてもう一度開拓するつもりで長い時間をかけて取り組んだことでもう一度お米を育てることができるところまできたのです。

はじめは、遣ろうとする決意だけですがそれを支え、共に助け、共に信じ合いながら取り組む中で奇跡とも言うべき出会いを体験していくことができます。多くの導きや援けの中で、如何に自分たちが自然の中で生きていること、何が不自然であるかなども学ぶのです。

自然農では、機械などは田畑に持ち込みません。機械をいれることで、様々な自然の営みを感じる事も出来ずまた味わい深い豊かさを実感することができなくなるからです。

私たちは何でも一人でやった方が善いというような価値観を明治以降に植え付けられました。
作業効率や経済効果を優先され、その結果、オートメーション化というか機械だけではなく人までそういう消耗するロボットのように配置されて働くようになったのです。

そのことから、田んぼに関わることもすべてはトラクターはじめ様々な機械を使って一人でもできるように自動化されていったのです。今では、除草などをはじめ全ての作業を機械があれば一人でもやっていけそれでたくさんの収穫を得ることができるようにもなったのです。

昔は、手植えで田植えも行っていたし除草や収穫などもすべて近所の人達や子ども達、お年寄りまで総出で田んぼに集まりみんなで力を合わせて取り組んでいたのです。そして収穫したものを皆で分けたり、また手伝ってくれた方々への御礼もその田畑の恵みを分け合うことでまた絆を深めていたのです。

今回私たちが福知山へきて田植えをするのは、農業体験などではなく自然に自然の農というものを学ぶために来ているのです。それは共生するということ、一人ではできないからこそ皆で助け合ってみんなで協力して一体になって取り組むということを行うのです。

田んぼも一人でやろうとすれば、様々なことは大変なことだけになってしまいます。しかし、みんなでやればその大変こともとても楽しいことに変わるし、苦労もまた素敵な充実感や貴重な思い出にも変わるのです。

私たちの祖先はみんなそうやって田んぼでお米を育てて食べるということを通して、人々と協力することあらゆるものと共生することをずっと大事にしてきた民族であるのです。

それを田植えという体験を通して学んだ一日になりました。

自然の前に独りで立ってみてはじめて人の有難さ、そして仲間の素晴らしさ、生きものたちの美しさを実感することができるのです。子ども達に何を遺したいかではなく、そもそも私たちが変わらずに自然に大切にしてきた人としての在り方なども生き方と働き方の一致の中で伝承していきたいと思います。

繰り返される悠久なる自然の中で、世代を超えた偉大な責任を肌で感じています。