自発

自発というのは誰かのために自ら進んで何かを考動することと言います。

これは自分の中で何をすることが役に立つのかを自覚するから芽生えていく生長のことであろうとも思います。全ての生きものは、この自発性を備えているもので自然の中を見渡していても自らが何をすることが善いのかを知らない生きものはいません。

しかし人間は何かを教え込まれ刷り込まれることで我慢を氏そして我儘になることでこの自発性というものが失われていくように思うのです。

そもそもこの自発の発とは何かと定義すると、私の中では本当の自分の心の奥底から発することをいいます。それは呼吸をするように、また血液を循環させるように、または昨日書いたような感謝の本体から発信されてくる発動のことです。

難しい言い方になると、無や空から突然起こってくるようなイメージのものですがこれが自発したということになるのです。直観などという言い方も近いかもしれませんが、言葉で説明するには限界があるのもこの自発という真意です。

自発性というものは、見守ると常に同居しているもので子どもを丸ごと信じてそれをどのようにすれば役に立つかを考える事です。その人がどうしたいのかをよく観て、それを実現するにはどうすればいいかを具体的な仕事で活かすことのように思います。

私達の会社でも発酵というテーマで取り組んだり、日々の記憶や記録を誰かのために発信したりするニュースに取り組み実践するクルーがいますが、すでにその取り組みの実力は群を抜いて発揮しています。最初は分からないままに他動によって始めたにせよ、それを信じて積み上げ取り組む中で自発性というものは引き出されていくものです。

自発性というものは、互いに信じて合っている中で育まれるものなのかもしれません。自発性を持つもの同士は信じ合っているものだから、その信が顕われることが実力というのでしょう。将来のことを信じ、その人が最終的にどのようになりたいかをよく観て、その人に今、必要なことを見守りながら一緒に取り組んでいくということ。その学びの尊さを感じます。

何よりも今の集積を通して、自分が御役に立てていることを日々に自覚するまで遣り切ることが、自発の種に息吹を与えることなのでしょう。そうしてそれが共生の原理であり、人間の社会が持つ「つながり」を味わえる極楽の境地かもしれません。

集団で生きることで発展してきた私たちの祖先は、何を大切にしてきたのか。今回の連休のテーマにしています。

何を与えていくことができるのか、与えられたものが何か、常に自問自答して自発に気づいていこうと思います。