覚醒

毎日を生きている中で、本来の自分のままで素直に全てを発揮しているときと周りに合わせて自分のようなものでいると勘違いするときがあります。

例えば、ぼやっとした中で自分が何となく生きているときと、本気で生きていると実感するというものがあります。今というものに流されてしまうのは、常に目覚めた自分を維持するのは自らが主体で発揮し続ける必要があるからです。

風に吹かれて飛んでいる鳥も、風任せではなく風に乗り風と共に一体になって目的を達しています。これと同じように、人も日々に吹いている風とどれだけ一体になって自らを主人公として一体となったか、つまり自己を発揮したかということによるものだと思います。

簡単に分かるようなものはこの世には存在せず、常に自問自答、己事究明していくのが今に生きるということでしょう。

その今をどれだけ追及するか、何の意味があるのか、それが何を繋がっているのか、自分はどう言っているのか、自分が何をしたいのか、自分の使命とはと、常に主体が自分であって相手や周りにあってはならないのです。

相手がどうであれ、自分が何を探究し究明したのかというのは常に本番である今に問われます。その人が単に知識として得たものを振りかざすことが意味があるのではなく、主人公であったかということに本来の絶対的な意味があるのです。

禅の無門関に瑞巌和尚の問答が紹介されています。
ここに目覚めること、自発的であること、主人公とは何かを自明しています。

「瑞巌ずいがん和尚、毎日自ら主人公と喚よび、復また自ら応諾おうだくす。及ち云く「惺惺着せいせいじゃくや、喏だく。他時異日、人の瞞まんを受くること莫れ、喏喏だくだく」(『無門関』第十二則)

日々に自分に問いかける。「オイ、目覚めているか主人公、オウ、醒めているよ。そしてどんな時も自他を騙すんではないぞ」と。

これは何よりも大切なことです。

人は刷り込まれて本来の自己を見失いますが、まさか自分が刷り込んでしまっているとは思いもしないものです。しかし実際は、自分の安易な知識の流用やモノにしていない理解のせいで周りを惑わしてしまうことがあるからです。

全ては主体を誰かに預けたり、他発的な行為を繰り返す中で、本来の自分は刷り込まれ出て来れなくなるのです。毎日、掃除をするかのように目的を確認したり、目覚めているか、醒めているかと確認することは、その意味を確かなものにするのに似ています。

常に惑いから覚めるような、決断や決心のところに帰ることこそが修行の本質かもしれません。日々に覚醒しているかどうかをチェックしていきたいと思います。